うんち君のこぼればなし
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恐怖新聞配達

 かつて新聞配達をしていた。もちろん、一日読めば寿命が百日縮まるというあの『恐怖新聞』を配達していたわけではない。最終的に新聞配達が恐怖になったので辞めた、という経緯がある。だから本当は、『恐怖!新聞配達』といったタイトルが正しいが、その辺は多少いやらしく狙って書いてしまった。不誠実である。遺憾(なら書きかえろというところだろうが、かえない)。

 小学生の時から私はずっと戦車ファンだった。スーパーカーブームなどには目もくれず、ひたすら田宮模型の1/35ミリタリーミニチュアシリーズ(MMシリーズ)を愛した。小学校を卒業する頃、ラジコンが欲しくなった。もちろん戦車のラジコンだ。だが当時タミヤには1/16のM4シャーマンというアメリカ戦車しかなかった。これはタミヤの最初のラジコンモデル戦車で、まだバッテリーの性能も悪く、速度、走行時間ともに不満点が多いキットだった(現在ではモデルチェンジが加えられて随分良くなっているようだ)。だがそんなことよりも、そもそも子供に手が届くような値段ではなかったから、戦車ラジコンを買うということは全く現実的な話ではなかった。

 戦車ラジコンに思いを馳せているうち、『戦車』であること以上に『ラジコン』であることに対して興味が湧いてきた。もちろん理想は戦車ラジコンだが、それが現実的でないならば、とりあえず車のラジコンでも良いと思うようになった。結局妥協の末たどり着いたのが、1/12のポルシェ935のキットだった。戦車に比べると格段に安いと言っていいが、それでもキットだけで1万円程度はする。その他にラジコン用の機械であるプロポ(操縦と電波の送信をする機械)とサーボ(受信と動作をする機械)というものが必要で、結局合計で3万円前後はしたと思う。当時の小遣いではいつまでも貯まりそうにない金額だった。しかし、私はこらえ性が無いほうなので、もう我慢できなかった。とりあえず親にお金を借りて、バイトで返すという交渉をした。交渉は無事成立して私はラジコンを手に入れることが出来た。で、ラジコンがどうだったかという話はここでは関係ないのでしない。

 現在でもそうなのかは分からないが、当時は中一からできるバイトといえば新聞配達ぐらいだった。ちょうど小学校を卒業したところだったので、中学入学前の春休みに親友を誘って一緒に近所の新聞販売店に行った。その友人は特にバイトをする必要はなかったのだが、なんとなく心細かった私のために付き合ってくれた。朝刊は早起きが大変なので、夕刊の配達を希望して、4月以降、空きが出たら働けることになった。

 4月になると、すぐに空きが出た。前任者のおばさんに2,3日ほど一緒にまわってもらって、配達ルートを覚えた。おばさんは買い物カートに新聞を入れていたが、私は昔ながらの肩掛けスタイルだった。右肩から斜めにたすきを掛けて、新聞を左腰の所で抱える。幅6,7センチ程のただのたすきなので、ちゃんと押さえていないとバランスが崩れて新聞をぶちまけることになる。部数は130部程度。毎回、販売店のベテランたちが各エリアごとに数えて並べておく。夕刊で薄いとはいえ、配り始めのうちはかなり重い。子供ながらに肩凝りになった。

 1週間ぐらいは地図を片手に配達したけれど、そのうち覚えて地図を持たなくなる。時々、新規で入る家や購読をやめる家が出てくるので、その都度配達前に地図で指示を受ける。あの家がやめたとか新しく入ったとかいうことが繰り返されるうち、当然、配達を間違えるようになる(当然じゃいけないのだけれど)。そろそろ今日の配達も終わりそうだという時に、

「あれ?1部あまったなあ」
 とか、
「2部も足りない!」
 と気付くことになる。

 最初の仕分けで店のおじさんたちが数え間違ったという可能性も無くはないが、おそらくは自分の配達間違いがほとんどだろうと思う。足りない時は販売店からまた取ってきて配達すればいい話だが、余った時はどの家に入れ忘れたのか全く分からないので、成す術がない。

「余りましたあ」
 と正直に言って、あとは未配達の家から苦情が来るのを待つしかない。苦情が来る頃には自分はもう店にいないので、尻拭いは店のおじさんたちにやってもらう。無責任なようだが、きっとこれは業界標準の作法だ。

 配達エリアは私の中学校の学区内だったので、同級生の家が何軒か含まれていた。急な雨で困った時、おかまの噂があったクラスメイトのK君(おかまの噂は関係ないけれど)の家に配達したついでに傘を借りたこともあった。最初から雨が降っている日は、カッパを着て新聞にはビニールシートを被せて配達する。ビニールごとたすきで巻くので、こんな時は新聞が滑り落ちやすい。雨の中で新聞を落っことしたりしたら、もう踏んだり蹴ったりである。踏んだり蹴ったりと言えば、うんこを踏んだことは幸いなかったのだが、糞意をもよおし過ぎてこまったことがあった(ちなみに“尿意”という言葉はあるが、“糞意”という言葉は本当は無いようである。なぜか?)。

 当時、私はそれほど腹を壊す人間ではなかったように思う。このときも腹を壊したわけではない。極く健康的な排便欲を感じたのである。腹が痛くないだけ楽なのかと思うかも知れないが、なかなかどうして、普通便の突出力にも凄まじいものがある。新聞の配達には1時間程度を要するのだが、私が最初に糞意を感じたのは配達時間も残り30分程になった時だった。

「大丈夫かな?」
 と、最初は軽く考えていたが、ものの5分もしないうちに猛烈な圧力に襲われ始めた。健康的な便の圧力というものは、便そのものの密度が濃いからか、とにかく“しっかり”している。“たくましい”と言い換えてもいいかもしれない。下痢便を水鉄砲の水とすれば、普通便は豆鉄砲の弾とたとえて良い。水にはフレキシビリティがあって、ガスの抜け道とか、腸の動きに対する追従性があるけれど、普通便は完全な“栓”である。背後の圧縮されたガスの力を一点に集中させ、ポン!と飛び出ようとしている。

 残り30分、とてももたないと思った。括約筋の活躍(ダジャレ)だけでは力不足なので、臀部の筋肉も動員してなんとかせき止めている状態であるから、まともには歩けない。臀部を閉じた状態を保つためには足を普通に前後させられない。キューッ!とお尻を引き締めたまま体全体を弓なりに反らせて、つま先だけでちょこちょこ歩くような、大袈裟に言えばそういう体勢になっている。だからなかなか前に進まない。むしろ我慢するためには立ち止まっていたいところだが、そのままでは道のまん中で破裂するしかない。ちょっとずつでも進んで行かなくてはならないのだ。悲しいことに、近くには公衆便所などない。どうしようもなくなればその辺の家に駆け込んでトイレを借りるしかないが、多感な少年としてはそんな真似はしたくなかった。かつて傘を借りた(おかまの噂のある)K君の家でトイレを借りられたら良かったのだが、彼の家は既に配達が終わり、遥か遠くにある。私は途方に暮れた。

 結局、どういうわけか私は最後まで配達し終えてからトイレへ向かうことを決意した。鬼の決意と言っていい。無精者ゆえか、一度販売店に帰ってスッキリしてからまた戻って配達するなどまっぴらだと思ったに違いない。脂汗を流しながらちょこちょこと進み、耐えきれなくなったら立ち止まり、時にはしゃがみこんでケツを引き締め直す。「うー」とか「はうっ」とかうめきながら、体力のほとんど全てを一箇所に注ぎ込んで、私は戦った。そしてついに勝利したのだ。販売店の外に設置されているトイレにたどり着いたその時の喜びは筆舌に尽くし難い。程なく“うんち君”と化して、授業中、通勤中、会議中に苦しみ抜いてきた私の後の経験に照らしても、これほど困難な戦いはなかった。こらえ性の無さゆえラジコンを買い、その借金のために新聞配達をすることになった私が、その仕事を通じて大きなこらえ性を身に付けたのである。

 さて。いつも決まった時間に新聞を配達していると、お馴染みの顔というものが現れる。私のエリアには2人の特徴的な女性がいた。もちろんこれは私が勝手に名付けた呼び名だが、1人は『突っ走りネーチャン』であり、もう1人は『インディアンおばさん』だった。

 『突っ走りネーチャン』はその名のとおり、いつも突っ走っていた。歳は20代の前半だろうか。もしかしたら学生だったかも知れない。肥満気味でメガネをかけていた。お世辞にも美人とは言い難い。毎日同じ時刻に走ってきた。道の向こうのほうから、必死の形相で汗を散らしながら全速力で走ってくる。私とすれ違い、そのまま走り去る。なぜそんなに一生懸命走るのか、きっとバスの時間かなにかに間に合わせようとしていたのだろうが、だったらたまにはもう少し早く家を出たらどうですか、と言いたくなる。私は一度たりとも彼女が歩いている姿を見た記憶がない。

 『インディアンおばさん』は、いつも犬を散歩させていた。年の頃は50歳ぐらいか。その服装と化粧の派手さは尋常ではない。『インディアンおばさん』たる所以は、ひとつはその髪形にあった。長い黒髪をどういうわけか三つ編みにして左右に垂らしている。まさにネイティブアメリカンと見紛うばかりだったが、それだけではない。なんだか族の大酋長が頭に付けている豪奢な羽飾りを全て顔面に集めたような素晴らしく激しい化粧をしている。そして毎日違ったド派手な衣装を着て小型犬を散歩させていた。もちろん彼女の放つ化粧品の匂いも並大抵ではなかった。

 これだけ?と思うかも知れないが、この2人の話はこれでお終い。次の話に行く。

 昭和53年6月12日のこと。私はこの日、極く普通の体調だった。学校でも特にどこか具合が悪いということもなく、普通に家に帰ってきて、いつものように新聞配達に行くつもりでいた。ところが、そろそろ家を出なきゃなあと思った頃から、にわかに体調が悪くなった。なんだか知らないが、とにかく具合が悪くなった。無理して行けないことは無さそうだったが、無性に新聞配達を休みたくなった。半ばずる休みだなという自覚はあったが、それでもとにかく休みたかった。直前に休むと言えば店の人が嫌がるのは分かっていたが、それでも電話をして、「どうしても無理?」と食い下がる店長を振りきって無理矢理に休んだ。

 休みと決まると途端に体は元気になった。ああ、やっぱり行きたくないという気持ちが体調を悪くしたんだな、と思ったが、なぜ自分はそんなに新聞配達に行きたくなかったのかが理解できなかった。私はいわゆる登校拒否のようなことをしたことは無く、とてつもなく学校に行きたくない日でも、そのために体調が悪くなって学校を休んだというような経験を持ったことがない。普段からさほど嫌だとも思っていない新聞配達に関して、これほどまでに行きたくなかった理由はなんなのだろうかと私は思案してみたが、その時にはまだ分からなかった。

 たちまちにして元気になった私は、ロッテのココロールというソフトキャンディーを食べながらテレビを見てのんびりしていた。
「さぼっちゃったなあ。でも、たまにはいいか」
 と、気が小さくてまじめな普段の自分には似付かわしくない思いを抱きながら、私は茶の間の畳の上で寝転がっていた。

 そして午後5時14分。大揺れが来た。いわゆる1978年宮城県沖地震である。驚いた。家の中はシッチャカメッチャカになった。テレビも落ちたし冷蔵庫も倒れた。食器棚も本棚もプラモデルを陳列していた棚も倒れた。我が愛しのミリタリー車両たちは大破した(直す気力が湧かなかったので、後日、やけになって爆竹で破壊した)。私自身は全く無事で、家族にもけが人はいなかった。その夜はローソクで過ごした。ちょっと楽しかった。

 翌日学校へ行くと、全校で1人だけ家が全壊した生徒がいるという。聞けば同学年のN君の家だった。クラスは違うが実は彼のことはちょっとだけ知っていた。なぜならば、彼の家は私の新聞配達エリアにあったからだ。しかし彼の一家はほんの少し前にその家を出て行っていた。間の悪いことに、引っ越したばかりの家がつぶれたのである。おまけにこの日私が新聞配達をしてまわってみると、N君が以前住んでいた家は全く被害がないように見えた。つくづくお気の毒である。

 この地震での死者は30名近くに上ったが、そのうち半数以上が倒れたブロック塀の下敷きになって亡くなっている。地震翌日、いつものように始まった配達も、目にする景色は少し違っていた。あちらこちらに地震の爪痕が見える。ブロック塀が倒れている家、壁が落ちている家、瓦が落ちている家。特にブロック塀の被害は思った以上に大きかった。ある二戸一(にこいち。通常、同じ間取りの2住戸が1棟として建てられている一種の長屋)の住宅では、20mほどにわたって全てのブロック塀が完全に倒れていた。この2軒の家の新聞受けは玄関の扉横にあり、ブロック塀は玄関前の通路を塞ぐように内側に倒れていた。玄関前の通路幅と倒れたブロック塀の高さはほぼ同じで、もしも地震の時にこの玄関前に人が立っていたとしたら、どこにも逃げ場はない。成す術なくブロック塀の下敷きになるのみである。

 私は玄関前に横たわるブロック塀の上を歩きながら、その家のいつもの新聞受けに新聞を入れた。そのとき私は気付いた。新聞配達をしている時間というのは、多少のずれはあるにしても、ほぼ毎日同じようなものだ。ある家に新聞を入れる時刻は、おそらく2,3分の幅でほぼ一定している。地震の発生した午後5時14分という時刻は、かなりの確率でこの二戸一住宅付近を配達している時刻なのである。もしもあの日、いつも通りのペースで新聞を配達していたとすれば、私の命はあの家の前で尽きていたかも知れない。もちろん、ほんの1分ずれてさえいれば問題なく生きて帰って来れたというだけのことでもあるが、しかし、最初から新聞配達さえしていなければブロック塀の下敷きになる危険性は全くなくなるのである。地震の日、どうしても配達を休みたくなった理由はこれだったに違いないと私は思った。虫が知らせたということだろう。

 この地震に関する経験をした後、私の霊感的な能力が多少活性化したのかも知れない。その後、私に新聞配達を辞める決心を固めさせたちょっとした出来事が起きた。

 季節は秋になっていた。新聞配達を始めてから既に半年近くが経っていたが、親からの借金も清算済みで、私にはこれ以上働き続ける理由がなくなっていた。とはいえ、あまり短期間で辞めるのもどうかと思ったので、なんとなく新聞配達を続けていた。そんな頃、いつも配達しているある家で、妙な感覚を覚えた。悪寒である。その家は道路よりも敷地が3mほど高くなっており、新聞受けはコンクリートの階段を上った先の玄関脇にあった。そこは半年間ずっと配達し続けてきた家で、それまでは特に何事もなかった。ところが、ある頃からなんとなく薄気味悪さを感じるようになったのである。その家の階段を上がるとなにかがゾッとして、どうしても早足になった。なぜゾッとするのか私には理由が判らなかった。そんな状況が何日か続いた。

 その日も私は薄気味悪さを感じながら、その家に新聞を入れた。玄関は階段から少し先にあって、途中には部屋の窓があった。その日はたまたまか、その窓が開いており、私は去り際に何気なく部屋の中を覗き込んだ。窓際に写真が立てられているのが見えた。肖像写真だったが、その写真立てには黒のリボンがかけられていた。私は悪寒の正体を知ったと思った。一気に駆け出して、その家から遠ざかった。以後、その家に配達するのがたまらなく怖くなった。その家は配達エリアの最後の方にあるので、冬が近づくにつれ暗い中を配達しなければならなくなった。暫くはダッシュ配達で頑張ったものの、結局その家の存在が負担となり、新聞配達を辞めることにした。

 たいした恐怖でもないが、といったわけの、恐怖新聞配達である。

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