うんち君のこぼればなし
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悲しみのパスポート

 やや大げさである。実のところ悲しみというほどの話ではない。

 私はソフトコンタクトレンズを着けているが、取り扱いを注意しないと、ものもらいができたり結膜炎になったりする。通常ならきれいな手で扱えば特に問題はないはずなのだが、バイク通勤をしているときにはどうしても目に汚れが大量に入るので、放っておいても余り清潔な状態ではなくなるようである。汚れは目ヤニとなってコンタクトレンズに付着して視界を曇らす為に、ついついコンタクトレンズの表面に指を触れてそのヤニを排除しようとする。この時にいちいち石けんで手を洗うべきなのだろうが、なかなかそうもいかないので、目の環境はさらによろしくないものとなりがちである。というわけで、気が付けばややこしいものもらいが出来た。

 『霰粒腫(さんりゅうしゅ)』は広辞苑にも載っているので割とメジャーな疾患のようである。俗称『めいぼ』。『名簿』ではない。『目疣』だ。この霰粒腫が右目に出来た。それより数ヶ月前、左目にやはりものもらいが出来たが、このときは普通のタイプのものだったので、眼科でちょっと切って膿を出したらすぐに治った。ものもらいとはニキビみたいなもので、膿がチュッと出てしまえば半日で治るようなものだとこのときに思ったのである。というわけで、再び出来たものもらいについても私はたかをくくっていた。

 最初、目頭のほうに痛みが出たので見てみると、結構腫れあがっていた。以前のものもらいに比べると痛みは少し強かったが、それでも大したことはなかった。そのうちまた膿が出て治るだろうと考えていたが、どうも様子がちがう。膿も出ないまま10日程で目立たなくはなったが、それでも完全には腫れがひかなかった。触ると瞼の中に堅くてコロッとしたしこりがある。そのうち今度は目尻のほうが痛くなってきて、目頭のほうも再び腫れだした。妻が医者へ行け行けと盛んに言うので、仕方なく近所の眼科へ行った。

「霰粒腫ですね。治りが悪くて再発しやすいんですよ。最近、コンタクトを着けてる人にすごく増えているんです」

 物腰が柔らかく、患者に対する説明を丁寧にしてくれる40そこそこといった感じのその医者は、ヒゲと眼鏡がなんとなくいかがわしい。詐欺師にありがちな顔に見えなくもない。病院は景気も良さそうだし、事務の女性や看護婦の方々も若くてそこそこ綺麗な人ばかりが集められているようにも見える。

(偽医者?)

 と思わせるような雰囲気がそこかしこに漂ってはいるが、おそらく本物であろう。ただし、藪医者かも知れない。

「薬を出しておきますが、炎症は治まっても完全に腫れはひかないかも知れません。害はないですが、気になるようでしたら切って膿を出さないとしこりが残ってしまうことがあります」

 そんな嫌なことを言われた。そしてその通り、腫れはひかなかった。

「切ってください」

 害はなくともこんなコロコロを一生抱えて生きていくのは嫌なので、私は手術を依頼した。手術といっても大したことはない。歯を抜くのと変わらないぐらいなものだろう。ほんの数分で済んでしまうものらしい。きっと、ちょっと薬を塗ってピッと切る程度に違いない。

 処置室に仰向けに寝かされると、瞼に麻酔の注射を打たれた。

“ドズチクッ!”

 相当に痛い。その上やたら長い。手足が悶えた。麻酔の注射がこれほど痛いということは、手術自体はこれ以上に痛いものでなければ割が合わない。麻酔の注射が一番痛いなんてことになれば麻酔無しで手術した方が良いということになるからだ。しかし、だからといって割が合うというのもあまりうれしいことではない。とはいえ、麻酔が効いているのでこれから先は激しい手術であってもそれ程の痛みは感じないはずだから心配することはないのだ。

 目の上のことなのでどういうものなのか全く見えないのだが、次に医者が取り出したのは瞼をひっくり返して固定する器具である。どうにかして瞼を挟み込むとネジ式の機構により瞼がだんだんひっくり返されていく仕掛けのようだ。この“瞼ひっくり返し”器具も痛いらしいが、この時は痛みを感じなかった。麻酔が早くも効き始めていたのかも知れない。それにしてもこの器具、瞼をムギューッとつまむ力が度を超している。つまみ過ぎだろう、と思う。それが証拠に、

「瞼をひっくり返すときに強く挟みますから、瞼が内出血して黒くなると思いますけど、一週間もすれば治りますからね」

 と医者は言った。しかし、幸いなことに瞼は内出血を免れた。

 瞼がひっくり返った顔は気色悪いんだろうなあ、などと思いながら次なる処置を待っていたが、ついに切開が始まるとそんなことを考えている余裕は全くなくなってしまった。メスでちょっと切るのだろうと思っていたら、どういうわけかハサミのような「バチン、バチン」という激しい音が聞こえてくるではないか。そして麻酔が全く効いていないのではないかと思うほどにそれが半端ではない痛さなのである。いったい何回ぐらい切ったろうか。バチンバチンバチンバチンといつまでたっても切り終わらない。しこりの周囲を丸く全て切り取っているかのような様子にも思える。痛みに耐えつつ静かにしていることも出来ないではなかったが、痛いことを意思表示しないといつまでも乱暴に処置され続けそうだとも思い一度だけ痛がってみたが、結局優しくはしてもらえなかった。

 ひとまず切開が終わってその刺激的な痛みから解放された時、医者が大きな声でこんな事を言った。

「あー、随分血が出るなあ」

 すると眼球の上がホワーッととても温かくなり、視界が真っ赤になった。ガーゼでぬぐうのだが、ぬぐってもぬぐっても暖かい液体が目の上を覆う。体感的にはポカポカして気持ちいいが、精神的には気持ち悪い。何重にも重ねたガーゼで10分以上圧迫してようやく出血は止まったが、結局数十ccぐらいは出血したのではなかろうか。

 医者は、もう一カ所、外側の目立つしこりを切るつもりでいたらしいが、出血がひどかったので取りやめた。後日また切らなくてはならないかと思ったが、どういうわけかその日のうちに外側のしこりも腫れがひいてきたので、再手術は行わないで済んだ。あの痛みと出血が医者の腕のせいなのかどうかはわからない。しかし、何にしろ2度とあんな手術はごめんだという思いだけは強く抱いた。

 それから半年後、会社で中国旅行へ連れて行ってくれるという話が出た。麗江(れいこう)という、歴史的な街並みと文化を残す、世界遺産にも登録された土地だ。このとき私のパスポートの有効期限がわずかだったので、急遽更新しなければならなくなった。ところが、実に悪いタイミングで霰粒腫が再発したのである。パスポートの更新手続きはすぐにでも行わなくてならないのだが、腫れた目でパスポート写真を撮るのは嫌なので、再び手術をすることを決意せざる得なかった。前回の経験からすれば、手術の翌日には普段と変わらない顔で歩くことができる。すぐに手術をすれば、2,3日中に写真を撮ってもまだ間に合うタイミングだった。

 手術を受けるに当たっては違う医者を選択することもできたが、かつて普通のものもらいを診てもらったことのある近所のもう一つの眼科は、とても流行っていない貧乏くさい病院で、そこのおじいちゃん先生は優しそうではあるけれどとても頼りなかった。近所以外の病院へ行く気はさらさらなかったので、結局再びあの偽医者風の眼科医のもとを訪れることになった。

 今回も痛いことは覚悟している。だが前回よりは症状が軽いうちなので、あそこまで痛むことはないのではないかという期待も多少はある。期待のし過ぎは禁物だが、それほど最初からビビる必要もないだろう。とにかくあのインチキ臭いヒゲ眼鏡医者を信頼するしかないのだ。

 そして2度目の手術が始まった。まず最初の難関は麻酔の注射である。

「あれ?」

 覚悟していたほど痛くない。うまく痛点をはずして注射できたのか、あるいは腫れが少ないので瞼自体の痛みが今回はそもそも強くないのかも知れない。ちょっと今回は違うぞと思った。もしかすると医者の腕が上がったのか。

 続いては、例の“瞼ひっくり返し”器具の登場である。これは難無くこなして…。

「あれ?」

 痛い。もの凄く痛い。まるで拷問器具じゃないかと思うほどに猛烈に痛い。

「痛い痛い!はさみ過ぎ、はさみ過ぎ!めくり過ぎ、めくり過ぎ!」

 心の中でそう叫んだ。前回は全く痛くなかったというのに、いったいどういうわけか。すると、続いて行われた切開処置はさほど痛くなかったのである。なるほど、前回痛かったものは今回痛くなく、前回痛くなかったものは今回痛くしているのだ。2回の手術をトータルして各処置の痛みを平均化するとはなかなか計算し尽くされた素晴らしいお手前である。

 なんにしても手術は終わった。前回に比べ総合的に楽だったと言えなくはないだろう。これで明日、パスポート写真を撮れば全ては無事解決である。ところがその日の夕方、眼帯をはずして驚いた。瞼が真っ黒ではないか。内出血したのだ。痛かったわけである。だからはさみ過ぎだと言ったのに(心の中で)。一週間ぐらいで治ると医者は言ったが、それを待ってからパスポート写真を撮る猶予はない。

 今、私の持っているパスポートには、片方の瞼が真っ黒の顔写真が貼られている。2010年まで有効だ。

(でも本当は、奥二重だし写真の出来は汚いしで、ほとんど分からない。場合によっては両瞼とも真っ黒にも見える。つまらないオチですみません)

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