うんち君のこぼればなし
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図解 M澤さん

 M澤さんは、私が以前勤めていた会社のかつての上司である。私とは別次元に住んでいると言っても過言ではない。当時30代後半のM澤さんには小さな女の子がいて、おそらく家では童謡を唄ってあげたりしていたのだろう。休日出勤のある日、2人きりの職場で一日中『犬のおまわりさん』の口笛を聴かされたときには辟易したものだ。さらに、特筆すべきはこの人のくしゃみである。私の現在の職場には、必ずと言っていいほどくしゃみを3回セットでする人がいるが、そういうのとはちょっとタイプが違う。M澤さんのくしゃみを言葉で表現すると『ハークション!』となる。まるで当たり前と思うかも知れないが、本当に『ハークション!』なのだ。あえて言うならではなくて、誰がどう聞いても『ハークション!』と聞こえるのである。それはくしゃみではなく、せりふなのではないかというほどにはっきりと言う。たとえて言うなら、豚が本当にそのまま『ブーブー』と鳴いたり、鶏が『コケコッコー』とか『クックドゥードゥルドゥー』ときっちり鳴くようなものだ。おそらくM澤さんは、くしゃみは『ハークション!』でなければならない、『ハークション!』こそ正しいくしゃみなのだと思いこんでいるに違いない。4年間ずっと私の上にいたのだが、いろいろな意味で考えさせてくれる人だった。

 M澤さんは人をプレッシャーで働かせる。「大丈夫かな、間に合うかな」と表面的には優しげな言い方で常に部下にプレッシャーを与え続ける。

「この日までにはやらないとさ」
 と、締め切りを指定する。徹夜をして必死になって仕上げると、彼はそれを見て新しいアイディアを発想し、新たな締め切りを指示する。最初の締め切りは偽りの締め切りであり、部下に材料を出させるための戦略だったことを私は知る。スロースターターである私をどうにか早く動かそうと、M澤さんはプレッシャーを強めるが、その戦略に気が付いた私は、仮の締め切りに対してはなるべくのんびりと対処しようとした。でないと、体が持たないからである。

 翌日にクライアントとの打ち合わせを控えたある晩、終電の時刻も間近になった頃、一通りの資料をそろえた私は、そろそろ帰らないと、と思っていた。そこへ資料を見にM澤さんがやって来た。私は当然最後の確認だろうと思っていた。しかし、彼はその資料を見て、何かを発想したらしい。

「ここんとこはこうしたらどうだろう。そういう資料を作ったらわかりやすいと思うんだよね。それでまとめてくれるかな」

“まとめてくれるかな???”

 驚いた。要するに徹夜をしてやれということである。本当に徹夜はしょっちゅうだったから、馴れているといえば馴れていたのだが、だいたいは前もってこの日は徹夜だと覚悟を決めているものである。そうした気構えがあるからこそがんばれるものだ。あるいは、なにか失敗をしてしまって、仕方なく徹夜をするのならまた納得もする。だが、この時は上司の思いつきである。急にいいことを思いついたからやれという。突然新しいことを思いついて、ガラッと方針を変えてしまうようなことは彼にとっては日常茶飯事である。そのことはよく分かっているつもりだったが、まさか徹夜まで唐突な思いつきで指示するとは思っていなかった。

「嫌です」

 と、言える質ではない。だが、嫌な顔ぐらいはしたい。私は当時アルバイトで交際中だった現在の妻のほうを向いて、「一緒に帰れなくなって悪いね」という思いも込めて苦笑いをした。すると、

「なにがおかしいんだよ!」

 その様子をみたM澤さんが急に怒鳴った。

「いえ、別におかしくはないですけど」

 私の言葉に偽りはない。本当に全くおかしいことなどない。おかしいわけがない。

「じゃあ、なんで笑うんだよ。人が真剣に仕事の話をしているのになんで笑うんだよ!」

「苦笑いです」

 と、言いたかったが、言わなかった。それが言えるぐらいなら、最初から「嫌です」と言っていただろう。その後は面倒なので沈黙を通した。

 M澤さんはしばらくなんだかんだと怒りをぶちまけた後、私と私の後輩H沢ちゃん(私の横、M尾さんとの間に座っていた彼。「M尾さん」参照)を残して一人とっとと帰ってしまった。だいたいがこういう人である。人使いが荒いなんてものではない。このときはたまたま帰ってしまったが、基本的には自分も我々以上に働くから、それはそれでたいしたものだとは思うが、彼の場合は何かおかしいところがある。一緒にいるとどうしても納得できないところがある。簡単には説明しかねるが、常に欺瞞がある。ぼやっとしていると表面的な人当たりの良さと偽りの言葉で巧妙に隠されてしまうけれど、どうしても許せないような何かがある。当時、入社したてでまだM澤さんのそうした表面的なやさしさに騙されていたH沢ちゃんは、私に向かってこう言った。

「なんであそこで笑うんすか!最低っすよ!」

 私は答えて言った。

「そのうちわかるよ」

 その後、あるプロジェクトの現地調査として、富山県のほぼ全域を一週間ほどかけてまわることになった。まず、M澤さん、私、H沢ちゃんの3人が現地に入る。その後2日たったところでM澤さんと新人のNちゃんが入れ替わり、残りの日程は我々下っ端3人での気楽な旅となる。泊まる宿はほとんどが田舎の温泉宿で、それまで1年半、ほとんど東京に身をおいたまま猛烈に働かされてきた私にとっては、骨休めとも言える幸せな出張であった。だが、問題はM澤さんが一緒の最初の2日間である。

 調査のための下準備はほとんど新人のH沢ちゃんが担当していた。例の『なにがおかしいんだよ事件』から数ヶ月がたって、H沢ちゃんのM澤さんに対する幻想もようやく崩壊し始めていた。勝手が分からず、準備に随分と時間をとられていたH沢ちゃんだったが、結局、作業はなかなかうまく進まず、調査初日の前の晩はほとんど徹夜状態で、直接会社から早朝の空港へと向かうこととなった。一方の私は、前日まで別件のプロジェクトで忙しく、調査に入る前の数日間はかなり睡眠時間の少ない状態で、結局前の晩も2、3時間ほどしか寝る時間がとれなかった。

 そんな疲れ切った体でやって来た富山だったが、まず最初に我々を襲ったのはM澤さんのH沢ちゃんに対する説教だった。空港で借りたレンタカーへ乗り込み、最初の目的地へ移動を始めた途端、それは始まった。長い時間を費やしたものの、H沢ちゃんが用意した資料はM澤さんが期待するだけの内容にはまだ少し遠かったようである。アレが悪いコレが悪いと、運転手を勤めるH沢ちゃんに向かい、助手席から延々1時間以上にわたって説教を続けた。後ろの座席でそれをずっと聴かされていた私でさえヘトヘトになったが、すぐ耳元で執拗に説教され続けたH沢ちゃんの苦痛の程はいかばかりか想像するのも容易ではない。この時のH沢ちゃんの顔の憮然さ加減と言えば、これはもうたとえようもない程であった。睡眠不足の半分寝ぼけたような状態でそんな仕打ちを受けたら、発作的に自ら車をどこかに激突させてしまうのではないかと、そんな心配までしてしまった。

 第一の目的地で1時間ほどの会議を行い、その後すぐに最初の調査区域へ入った。真夏の真っ昼間にいきなり古城跡地の小山へ登った。その後夕方まで調査を続け、その日の宿の山荘に着いたときには、もう頭も体もクタクタだった。温泉につかって、おいしい食事をとって、やっとゆっくり眠れるのだと感激に浸っていると、M澤さんが言った。

「風呂入って飯食ったら、今日の整理と明日の準備をするからね」

 結局その晩、我々が床に入ったのは午前2時をまわっていたと思う。3人枕を並べ、泥のように眠った。私がM澤さんと一緒の部屋で寝たのは、後にも先にもこの一晩だけである。そして翌朝、この唯一の機会に私は驚くべき光景を目にすることになった。

 翌朝の起床時刻は6時半だった。だが、それより1時間程前、我々は窓の外から聞こえてくる大音響によってたたき起こされた。この山荘は登山客の拠点となる宿だったので、早朝から山へ出発する人達のために、早めのラジオ体操が行われるらしい。貴重な貴重な睡眠時間を無理矢理にもぎ取られ、数十分後に訪れる本当の起床時刻には、とんでもなく辛い寝起きの苦行が待っていることが予想された。事実、その時になると、私はどうしようもない眠気と闘いながら、グダグダ、ダラダラと布団の中で悶えつつ、なんとか目を覚ましたのである。横のM澤さんを見ると、まだすっかり就寝中のようであった。

 ところが。

「んあ゛〜っ!」

 突然、奇声とともにぱっちり目を覚ましたM澤さんは、一呼吸おいたと思ったら既に上半身を起き上がらせていた。と、それと同時に掛け布団が半分に折りたたまれている。そしてその格好のままさらに掛け布団をもう一回折りたたんで四つ折りにすると、「よいしょおー!」という掛け声とともに立ち上がった。この時、手には掛け布団が抱えられている。そのまま押入に直行し、掛け布団をしまうとすぐに身をひるがえし、敷き布団を抱えて押入に突っ込んだ。

「おはよう!」

 M澤さんはさわやかに言った。

「んあ゛〜っ!」から「おはよう!」まで1分とかかっていない。この人のエネルギッシュさは分かっているつもりだったが、よもやこれ程とは思っていなかった。到底この人にはついていけないと、魂の奥底から感じた瞬間だった。

 翌日、M澤さんが東京へ帰っていくと、我々は心から安堵した。

「ホントにもう限界でしたよ。2日で帰ってくれなかったら、死んじゃってたかも知んないっすよ。ホント、ものすごい人だ!」

 H沢ちゃんは興奮して語った。

「あの時、俺がどうして笑ったかわかった?『最低っすよ!』とか言われたっけなあ」
「ホント、申し訳ないっす。ホント、すみませんでした」

 私の言葉に、H沢ちゃんは小さくなって答えた。

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