うんち君のこぼればなし
ホーム      前へ INDEXへ 次へ
建築学科の話

 私が建築学科を志望したのには、これといった強い動機があったわけではない。建築に興味があったわけでもなく、身近に建築関係の人がいてその業界に親しんでいたということもない。建築家になりたいなんてことは考えた事もなく、まったく憧れたこともない。私が考えていたのは仙台の某大学の工学部に入る事だけであった。これは我が家においては昔からの決まりごとのように言われていたことである。その一番の理由は、母が同大学の工学部に長年勤めており(教職ではない)、その学生や環境に親しみを持ち、
「あんたたちが工学部に入ってくれると嬉しいわあ」
 とよく口にしていたことによる。

 たまたま、私も兄も理系の頭を持っていたようなので、目指すところが工学部というのは適性としては正しい選択であった。理系の学部にはもちろん工学部以外もあるが、レベルや興味の点から見ても工学部が我々に合っていそうだということは明らかであった。昔から工作が好きだった兄は工学部の中でも精密機械工学科を選んで、現在は某メーカーにてカメラの製作に携わっている。私はと言えば、当初は電気工学科を考えていたが、高校物理の段階で、
「そういや俺は電気が苦手だ」
 ということに気が付いてやめた。

 そもそもそこの工学部に入れるのかという切実な問題があったので、レベルを落として農学部でバイオテクノロジーをやろうかとか、他大学に行っちゃおうかとかいろいろ紆余曲折したものの、ある時手に入れた工学部の学科案内のパンフレットを眺めている時に、
「建築学科ってのは断然面白そうじゃないか」
 と思った。

 実は受験勉強をしているうちに、自分自身についてひとつ悟った事があった。それは、
「私はそれほどの理系頭じゃない」
 ということで、私がついていけるのはせいぜいが高校レベルの数学、物理であるということだった。どうも工学部の中では建築学科が最も理系っぽくなく、難しい数学や物理に苦しめられる事は比較的少なそうである。パンフレットには、建築は単なる工学ではなく、芸術性や歴史、社会学など広範な教養が求められる、なんてことが謳ってあり、授業では設計製図や美術的な実技を重視するとかなんとか書いてある。そういえば私は絵で表彰された事があったなあとか、建物をデザインして工作する授業で優秀作品に選ばれたっけなあ、なんてことを俄に思い出し、
「建築しかあるまい」
 という結論に至った。

 工学部を志望した受験生はあくまでも工学部にしか入れないが、工学部内の数ある学科の中からは第六志望まで選ぶ事ができ、人気の度合いと成績の兼ね合いによって、第一志望以外でもどこかに入れてもらえる可能性があった。ほとんどの人は第六志望まできっちり書いたようだが、私は、
「入りたくもない学科に入れられて一生が決まってしまうのはたまらん」
 という思いがあったので、第一志望の建築学科のみを書いた。そのことを高校の担任の先生に話したところ、
「馬鹿だなあ」
 と言われたが、なんとかうまいこと合格する事ができた。やはり工学部を受けて第三志望の学科に回された同級生がいたが、結局彼はその分野で学者になっているから、成り行きで変わってしまうのもまた人生ではあろう。だが、とりあえず私は希望通りの方向に進めて満足した。

 当時は1,2年生時は学部に関わらず教養部なるところで一般教養の授業を受けた。こちらは早く専門課程の授業を受けたくて不満だったが、そういうシステムだったので仕方がない。この教養部では娑婆とは違っていまだに学生運動が盛んで、某過激派の連中がヘルメットにマスク姿で毎日演説を行っていた。過激派が内偵に来た私服警官を襲って警察手帳を奪い、機動隊が学内に入ってきた騒動もあったりで、なかなか異様な別世界であった。この教養部は山の麓にあり、工学部は山の上にあったので、留年せずに無事進級できると、文字通り山の上の学部に上がることになる。

 山は自然が豊かで、バイクで走っていると目の前をキジが横切って轢きそうになったこともあった。山の上ゆえ、下界に比べて気温は何度か低い。教室の外にトイレがあったが、そこはドアレスの半屋外のような空間で、暖房も何もないので気温は外気と変わらず、真冬にはとてもじゃないが寒くてパンツを降ろすわけにはいかない。そこのトイレを使うのはせいぜいが小便止まりという事になるが、ある時期を過ぎると小便器も使えなくなった。というのも、ちょろちょろ流れる洗浄用の水が徐々に凍っていき、見るも荘厳な氷の柱を造り上げたからである。氷柱は日に日に成長して、そのうち便器の枠を越えて一抱えもあるようなボリュームになった。こんな見事な造形物を黄色く汚らわしい温水で壊すわけにはいかないから(あふれちゃうし)、皆は別の場所のもっと温かいトイレを使った。

 真冬の教室はこれまた驚くべき寒さで、朝、数十分間バイクで走って来て冷えきった体をさらに凍えさせてくれた。教室は北向きで全く日が差さず、なおかつ教室の北面は全面ガラス窓であった。暖房はスチームだがまるで能力が足りず、ぬる〜い空気がわずかに漂うのみで、窓からの冷気によって全てかき消されてしまう。どう見ても明らかな設計ミスと言えた。ある学生が授業中に体を震わせながら、
「畜生、寒いなあ、誰だよこんな建物設計したの」
 と教官に聞こえるような声で文句を言ったが、実は設計したのは目の前にいる教授であった。

 自分のところの建物がそんな具合だから、実のところ、この大学の設計教育のレベルは低い。低いというよりは、デザインについてちゃんと教育できるだけの環境がそもそもなかったのである。当時建築デザインを専門とする教官は一人もおらず、ゆえに意匠専門の研究室もなかった(以前はあったが休止状態だった)。デザインについてはこれといった実績も無い、いわば門外漢の教官たちが持ち回りで設計製図の課題を担当していたが、この人達に学生の作品を評価する能力がはたしてあるのかな、というのは学生たちの少なくとも何割かが抱いていた疑問だった。この大学では教育という事よりも研究という事に重点が置かれていて、学生の相手は自分の研究の片手間に、という雰囲気があるのではないかと、私にはどうも感じられた。

 もちろんデザインばかりが建築ではない。学生も職員も、半分以上は芸術センスに乏しいタイプの人間だろうと思う。かれらは純粋に学問的な方向へ進む。構造工学であり、計画論であり、材料学であり、あるいは設備工学である。それほど数学や物理に悩まされないで済むかも知れないといった気持ちで入ってきた私などからすると、構造解析などを研究している連中の会話はまるで異人語である。この大学はそれなりに勉強ができないと入れないところではあるが、入ってみるとそれぞれの能力の差は相当なもので、本当に賢い人間の頭というのは全くレベルが違っていた。私などはどんなにがんばっても全く理解できないような概念を、あっという間に受け入れる頭脳があることを知った。それはまさに異次元の世界で、私のような凡人はとっとと卒業して実務に携わった方がよいのだなと思わざるを得なかった。

 さすがに学者は違うと思ったことがある。構造関係の授業中、わりと大きな地震が起こった。教官はすぐに教室を出るように学生たちを促したが、てっきり避難のために出したのだと思いきや、教官は大きな声で、
「あそこに見えるひび割れが剪断(せんだん)破壊の亀裂ですね」
 と、揺れ続けている建物の外壁を指さして言った。

 建築学科だけにあって他の工学部の学科に無いと思われるものに『自在画・彫塑』という授業があった。要するに美術の授業で、木炭画のスケッチをしたり、粘土の彫刻を作ったりで、直接的には建築を扱わない。教官は近所の高校の講師も務める非常勤の先生で、私は結構高く買われたようで、
「スケッチのプロになれる。努力してみては?」
 といった評価をされたから、絵で食えないかなあと半ば本気で夢を見た。

 授業の中でモデルを使ったデッサンも行ったが、何年か前の学生たちが、
「みんなでお金を出すから、ヌードモデルを描かせて下さい」
 という要望を出したらしい。建築学科は一学年の学生数が50名ほどだったが、女性は極く少ない。私の学年は1人だったし、多い年でも3,4人がせいぜいといったところだ。だからもちろんその要望は男子学生たちのスケベ心から出たものだったのは間違いないのだが、その時先生はOKを出したらしい。そしていざその授業の日になってみると、先生はちょっとした異常に気付いた。明らかにいつもより学生の数が多い。見覚えのない顔が多数混じっている。そのよそ者たちが追い出されたのかどうかはわからないが、それ以降、ヌードデッサンはやっていないということであった。我々の授業の時はレオタードを着た女性モデルだった。

 デッサンは木炭画で行う。細いデッサン用の木炭というものが売られていて、それを使って描くのだが、美術をやっている人からするとこれは基本中の基本らしい。私はこの授業で始めて体験したのだが、紙の上に乗った木炭の粉は、定着材で固定するまではあっさりと付着している状態で、吹けば飛ぶし、指で擦ったり伸ばしたりして調子を整える事ができる。最近は専用の消しゴムのようなものがあるのかも知れないが、消すためには普通の食パンを使うのが一般的のようだ。食パンの白い部分をちょっと練ってあてると、木炭の粉が貼り付いて取れる。この木炭画について、先生がある知り合いの話をしてくれた。

 芸大の入試では木炭画のデッサンは必修であった。その人が芸大を受けようと思いたったのはかなり入試も近づいた頃で、付け焼き刃の対策はしたものの準備不足は否めなかった。一応ひと通りのことは勉強したつもりでも、やはり細かいところでは抜けがあったようである。木炭画デッサンの実技試験が始まり、他の受験生たちがカバンから食パンを取り出した。この人も木炭画の練習はしてきたのだが、線を消すのに食パンを使うということを知らなかった。皆が一斉に食パンを取り出したのを見て、
「あ、先に昼食の時間なんだな」
 と思ったそうである。そこで彼もカバンから弁当のオニギリを取り出して、堂々と食べ始めてしまった。もちろん驚いたのは周囲の受験生と試験監督である。呆気にとられた彼らの表情を見て自分の間違いにすぐ気付いたものの時既に遅く、
「ああ、俺は落ちたな」
 と予感したとおり(当たり前すぎて予感と言えるほどのものではないだろうが)見事不合格になったそうである。

 さて、意匠設計についての教育レベルが低いというのは、大学側がそれを軽視していたからだろうとも思われる。建築に芸術性や美しさを求めることは、むしろ美大系の建築科が目指す方向であり、いわゆる意匠設計の実務家である『建築家』を養成するのは本学の本分ではない、といった立場を自認していたのではないか。実際、同窓生の中で卒業後に建築家を目指す人間は極くわずかであり(それは建築家が儲からない商売であると知っているからでもある)、多くは大手の建設会社(ゼネコン)か役所勤めを選択する。ゼネコンに入ったとしても、現場に行くのが半分、設計部でも設備、構造設計をやる人間が半分以上を占めるから、意匠設計に行くのはせいぜい数人である。役所で設計をするということもまずほとんどない。大手の設計事務所に入ってもやはり意匠設計部門ばかりではないので、結局のところ卒業後に意匠設計に携わるのは10人前後、すなわち5分の1といったところがせいぜいであろう。ちなみに私の最初の就職先は建築とはほとんど関係がない。少なくとも私の配属された部署は意匠設計には全く関係がなかった。それは、建築学科を出てそのまま建築業界へ入り、建築だけの人として一生を終えるのが嫌だと思ったがゆえの選択だった。結局現在はとりあえず建築の方へ戻ってきているのだが、やはりこのまま建築の人として一生を終えたくはないと思っている。

 まあ、私のことはともかく、そんなような状況があって、意匠設計のプロを育てようという気はあまりなさそうな我が大学の建築学科ではあったが、それでも設計製図のカリキュラムというのはなかなか厳しかった。月に1度ぐらいの割合で設計課題が出されるのだが、締め切りが近づくと皆が徹夜の連続になる。授業にもほとんど誰も出なくなったりするが、閑散とした教室で寂しく講義をしている教官も事情はよく分かっているので特に文句は言わない。

 製図室には学生それぞれの製図板があり、皆そこで作業をするのが原則である。ところが、数十人が一緒になって何日も作業をし続ける環境というのは、あまり快適なものではない。タバコの煙が充満して空気は最悪だし、そこら中から雑多な音楽が大音量で流れてくる。本人にとっては素晴らしい音楽でも、嫌いな人間からすれば苦痛でしかない。ロック嫌いの人が何日もクリムゾンを聴かされ続けたら、おそらく顔付きが変わる。私だって、演歌を延々聴かされ続けたら耐えられないだろう(演歌をかけてる奴はいなかったが)。疲れて休みたくても横になれる場所は限られているし、さらに問題なのは冬の寒さである。製図室は南向きだったので昼間は暖かいのだが、驚くべきことに暖房が夕方5時で切れるのである。徹夜で図面を仕上げなければならないという時に暖房がないのだ。そういえば小さい灯油ストーブが用意されていたような気もするが、それでも広い製図室を温めるにはまるで足らない。たまらず何人かは電気ストーブを持ち込んでいたが、それが災いして真夜中にブレーカーが落ち、部屋が真っ暗になったことがあった。
「おいおい、冗談じゃねえぞ、間にあわねえじゃねえかよ!」
 と、皆は慌てたが、ブレーカーがどこにあるかも分からない。腰の軽い奴が「ちょっと捜してくる」と言って建物内を駆け回り、暫くしてなんとか復帰させることができた。

 製図室というのはこんなような環境なので非常に疲れる。というわけで、課題を持ち帰って自分の家で作業する学生がだんだんと増えてくることになる。ただし、製図板を自分で買わなければならないが、その程度のことはあの劣悪な環境での不快感に比べれば安いものである。暖かい部屋で、好きな音楽を聴きながら、好きな時に横になれるというのは実にありがたい。教官は自宅での作業を好ましくないとしていたが、それは、
「他の学生の設計を見ることでお互いに不足している部分を知り、刺激し合って作品のレベルを高めることができる」
 という理由であった。だが、辛い思いをしてまで自らの作品を高めようという志を持った学生はあまりおらず、6割から7割の学生は自宅で作業をしていたと思う。もちろん、製図室で作業をしていた連中全ての志が高かったわけでは決してない。はっきり言えば、教官のその言葉を信用していた学生はほとんどなく、製図室にいた理由は単純に個人的な好みとか自室での作業環境の問題に過ぎなかったと思う。寒がりで、タバコ嫌いで、なおかつ好み以外の音楽を聴かされることに我慢がならない私は、もちろん家で作業をしたクチである。

 建築学科の学生が最後に課せられるイベントこそ『卒業設計』である。普通の学科における最後のイベントといえば『卒業論文』であろうが、建築の学生の最後を飾るのは『卒業設計』である。ただしこれは卒論の代わりというわけではない。卒論もやらなければならない。最後には卒業設計が控えているので、卒論は11月あたりが締め切りであった。夏休みを返上して研究室に通い、数ヶ月かけて卒論を書き上げる。大学院試験を受ける連中は、夏休みの間に試験勉強もしなければならない。建築の学生はとても忙しいのだ。卒論を書き上げたと思ったら、すぐ卒業設計の準備に入る。これは今までの設計課題とは違い、テーマも条件も自分で決めて良い。内容は、A1用紙10枚にまとめるのに過不足無いボリュームを持った建築。基本設計レベルでA1用紙10枚分というのはかなりのボリュームである。学生にはなかなかつらい。期間は3ヶ月ほどあり、講義も既にないからそれだけに打ち込めるのだが、設計をまとめるのにほとんど時間を食って、製図の時間は4,5日しかなかった。私はかつてやったことのないペン画のタッチでのスケッチを半分ほどの枚数描いたから、普通の製図以上に時間がかかって、余裕が全くなかった。食事とトイレとちょっとの睡眠以外、何時間も何日も座ったままペン先だけを見つめ続けていると、いったい今がいつで、ここがどこなのかまるでわからなくなる。はっと顔を上げてみて、
「ああ、部屋の中だったんだ」
 と改めて気付くという状態だった。

 全くどこへも出かけず、卒業設計だけに打ち込んでいる期間が2ヶ月ぐらいはあったと思うが、時間の使い方は全く自由であったので、体の要求するままに眠くなったら寝て、自然に起きるという生活を続けてみた。実家に住んでいたから食事は時間が合えば一緒に食べ、合わなければ用意しておいてもらって勝手に食べるということにしていた。すると面白いことに、眠くなる時刻が毎日1時間ずつ遅くなって行ったのである。当然起きる時刻も1時間ずつずれていった。普通に夜寝て朝起きる生活が、そのうち朝に寝て昼起きるようになり、昼に寝て夕方起きるようになり、夕方に寝て深夜に起きるようになって、ほぼ一月後には一周して、夜寝て朝起きる生活に戻った。一周する間に1日分の睡眠を吸収してしまったわけだが、体はすこぶる快調だった。この間、私は25時間サイクルで生活していたのだが、これはとても興味深いことだ。人間の本来の生体リズムが25時間サイクルであるということは割と有名な話で、ある炭坑において、坑夫の勤務スケジュールをそれまでの24時間サイクルから25時間サイクルの基準に変えたところ、不注意による事故が劇的に減ったという事例があるらしい。ゆえに人間は25時間を1日とする星からやってきた宇宙人の子孫である、という仮説はほとんど誰も信じていないようだが、ではなぜ25時間というサイクルが備わっているかという謎はわからないままである。私の体験は人間の25時間サイクルを実証する事例のひとつとなったわけで、大変喜ばしい。

 さて、卒論も卒業設計もなんとかまとまって私も無事卒業することになったわけだが、最後に成績表をもらって少し驚いた。規定日数の出席だけしていれば確実に単位をあげます、と言われていた『測量実習』という科目があったが、それは逆を言えば、出席しなければ単位はあげません、というものだった。私は履修申し込みをしたものの、あまりにも興味が無く、単位数は他で足りてるし、自分の人生においてまず関係することはなかろうという判断をして、結局一度も出席しなかった。ところが、その『測量実習』の単位がちゃんと取得できていた。
「なんで受かってんだ?」
 と、私はおかしくて笑っていたのだが、後で聞いた話によると、
「ちゃんと出てたのに落とされた」
 と首をかしげていた男がいたそうである。彼の出席番号は私の隣だった。私が彼の代わりに合格したという事実を、彼はおそらく未だに知らない。しかし、それでも彼は卒業できたのだから、まあよしとしよう(私がよしとすることではないかも知れないが)。

ホーム      前へ INDEXへ 次へ