うんち君のこぼればなし
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地獄を見た日

 あのとき私は中学3年生だった。

 高校受験のプレッシャーなのだろう、中3になると私の腹の調子は極端に悪くなり、週に1、2度は必ず下痢をするようになっていた。思えばこれが私の人生における本格的な腹の下し始めであった。

 男性ならほとんど誰もが経験してきたこととは思うが、男子が小学校や中学校の便所において大便をするほど難儀なことはない。あるタイプの連中は、大便をしている人間を見つけることが嬉しくて仕方ないらしい。自分たちの小さな用事もそっちのけで排便者への虐待に興ずるのである。

 まずは嵐のようなノックに始まり、「入ってますかあ、誰ですかあ」といった執拗な問いかけが浴びせられる。もしその声の主がよく知った人物であり、交渉次第ではこの苦境から解放されるという見込みがあるなら、己の正体を明かすこともないではないが、大抵の場合は、とりあえず軽く尻を拭いておき、いつでも上げられるようにパンツとズボンに手をかけたやや中腰の状態で、とにかくただひたすらに沈黙を守り続けるのが普通である。

 そのまま飽きて帰ってくれればありがたいのだが、そこは子供の中の子供のような連中のことだから、そうあっさりと引き下がるわけもない。そのうちドアの下の隙間からモップの柄が突っついてきたりする。上から雑巾やトイレットペーパーが降ってくることも珍しくない。そしてふと見上げると、隣のブースとの仕切の上から、満ち足りた笑顔で見つめる顔に出会う。
「なんだ、鬼山だったのか。臭えなあ。まあ、頑張れよ」
 排便者の正体を確認して満足するのか、最後にはそんな優しい言葉さえ掛けて、お子様たちは静かに立ち去ってゆく。

 こうした状況があるために、男たちは学校内で大便をすることを極力避けるようになるのである。幸運にも私の家は中学校のすぐそばにあり、走れば教室から1分で自宅の便座に腰掛けることができた。だからこの中3の時期の私は、頻繁に訪れる腹痛に対し、とにかく授業が終わるまでは何とか我慢して、休み時間の10分間に家へ帰って用を足してくる、ということを慣わしとしていたのである。

 だが、この日はそうは行かなかった。いつものように腹の痛くなった私だったが、いつもとは少しだけ状況が違っていた。普段なら一時間目か二時間目の授業中に痛くなるところなのに、この日に限っては学校へ着いてまだ間もない朝のホームルーム中に、猛烈な痛みが襲ってきたのである。それは到底我慢できるような痛みではなかった。ホームルームが終わって担任の教師が教室を出ていくと、すぐさま私は友人を伴ってトイレへ向かった。この友人Tは私の一時帰宅の秘密を知る数少ない人間であり、時々は彼の腹痛のために私の家のトイレを貸してやることもある、いわば腹痛仲間であった。とはいえ、このときは別に一緒に行く必要はなかったのである。それにも関わらず彼を誘ったのは、やはり虫が知らせたのかもしれない。Tを連れて行ったことが後に幸いすることとなる。

 こうした緊急事態にやむを得ず学校内で排便をする場合には、教室からなるべく離れた、最も利用者の少ないトイレを選ぶものだが、この時にはそんな余裕さえなかった。腹具合がすでに限界であったし、授業が始まるまでの時間がわずかしかなく、遠くのトイレへ行っている暇がなかったのである。仕方なく我々は教室のすぐ隣にあるトイレへ入った。幸いなことにホームルームと1時間目の授業との合間というのはいわば穴場の時間であり、我々以外にトイレを利用している者は無かった。

 Tを見張りに立て、私は急いで用を済ました。二人以外誰もいないトイレで、何も問題なく事は運んでいた。これならば充分授業にも間に合うだろう、そう私は確信していた。尻を拭き、立ち上がり、パンツを上げ、そしてズボンのベルトを締めかけたところで私はフラッシュバルブを押し下げた。勢い良く水が流れ、山盛りになっていたものが水しぶきと共に姿を消していく……、はずだった。

 ところが水はどんどんとそのかさを増し、茶色いゲル状の物体を浮かべた水面は見る見る上昇して、たちまち便器より溢れ出した。
「うわあー!」
 靴が汚れないようにつま先立ちしながら私は叫んだ。
「どうした…、ん?」
 続いてブースの外からTの叫びが聞こえた。
「なにーっ!」

 汚水の氾濫はブースの枠を越え、トイレの床面の半分ほどをも覆ったところでようやく収まった。目の前の信じがたい光景に私たちは顔を見合わせたまま、ただ呆然として立ちつくすばかりだった。
「とにかく、後始末しよう」
 Tの言葉で我々は掃除を始めた。なにぶん時間がない。もたもたしていると授業が始まってしまう。とにかく大急ぎでやらなければならない。

 Tがホースで床を洗い、私がデッキブラシで排水口へ追い込む。幸か不幸か、この時の純然たる下痢便は小片となって一面に均等に散らばっていた。そのためトイレの中央に設けられた掃除用の排水口にトイレットペーパーともども容易に吸い込まれていく。これがもし健康なバナナ状であったならば、却って始末に負えなかったに違いない。

 外側を粗方片づけた後、ブースの中に手を着けようとしたものの、これは短時間で処理できる状態ではなかった。そもそも水の汚染度が違う。ブースの外とは濃度が比べ物にならないのだ。たとえ便器の周囲を何とか奇麗にできたとしても、便器の中の状態までは変えようがない。詰まり除去専用器具、すなわち、スッポン!とやる道具がここにはない。今ここに浮いている物だけはどうしても処理のしようがないのだ。
「半端なことをするより外側をもっと奇麗にしといた方がいいよ。個室の扉はとりあえず閉めとけば、しばらくは気付かれないかも知れないし」
 私がそう言って、二人は再び床を掃除し始めた。

 その時、唐突に入口の扉が開いた。瞬間、私の頭には『絶望』という言葉が浮かんだ。

「あれ?何やってんの?」
 入ってきたのは別のクラスのKだった。柔道部のキャプテンをつとめる、まさに気はやさしくて力持ちといった男である。私とは小学校時代から仲の良い間柄だ。
「ん、いや、まあね」
 私は笑顔で適当に答えながら、まだ少し残っている茶色い小片を体とデッキブラシとで隠すことに必死になっていた。心臓は高鳴り、表情はこわばっている。だがKは何も気付く風もなく、ただ不思議そうな表情のまま小用を足し始めた。

「あ、わかった!」
 突然Kが大声を上げた。

心臓が飛び出しそうになった。私は引きつった笑顔のまま、彼の次の言葉を待った。

「なんか悪い事して便所掃除やらされてるんでしょ。何やったの?だめじゃない、悪いことしちゃあ。まあ、頑張ってね」
 自分が導き出した結論によほどの確信があるのか、Kは大満足といった様子で悠々と立ち去っていった。

「ばれなかったな」
 Tが言った。
「あいつが入ってきたときはもう駄目だと思ったけど、ほんと助かった。あいつはやっぱりいい奴だな」
 私はKのことがますます好きになった。

 我々は最後の仕上げを済まして教室へ戻った。まだ授業は始まっておらず、我々が入ってきたことを気にする人間も特にいないようだった。事故自体はおぞましいものだったが、その後の処理について言えば、かなりの上首尾であった。

 その二時間程後の休み時間、一人の男子生徒が大騒ぎしながら教室に駆け込んできた。
「おーい、糞がどんどん溢れてきてるぞー!」
 私とTは思わず顔を見合わせ、苦笑いをした。その犯人が私であることをT以外誰も気づいていないことに、私は深い安堵の気持ちを抱いていた。

 Kのクラスでも、おそらくあふれ出る便のことは話題になっていただろう。その事実を知れば、Kにも朝の私たちの行動の意味が理解できたはずだ。だが、結局犯人が発覚する事はなかった。きっと友達思いのKがあえて口を閉ざしていてくれたに違いない。その後彼が警察学校へ進んだことを知った。きっと良い警官になっている事だろうと思う。だが、犯罪捜査にはあまり向いていないかも知れない。

 このトイレの配管は普通のものよりも細いのだという話を後に耳にした。また、この荒れた中学校ではトイレットペーパーが乱暴に扱われることが多く、水浸しになったり床に転がされたりしているために普通のポケットティッシュを使う生徒が少なからずいて、そのために配管が詰まり易くもなっているのだという。自分が使って自分で詰まらせるならいい。だが私のように後から使った者が被害を受けることの無いよう、公共の水洗便所ではちゃんとしたトイレットペーパーや尻拭き紙を使おうではありませんか、みなさん!

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