うんち君のこぼればなし
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一生に一度の体験

「不測の事態に備えよ」
 という言い方があるが、なにをとぼけたことをぬかしているのか。予測できないからこそ“不測”というのではないのか。予測できないことには備えようがない。あらゆる可能性を考えて備えろというつもりなのかも知れないが、可能性を考えられるなら不測というほどのことでもない。

 私はつい先日、不測の事態に直面した。実に驚いた。こんなこと、起こってみるまではまるで想像もしていなかった。あまりにもびっくりしたので、急遽『うんち君』のネタとして書くことにした。確かによくよく考えてみれば、可能性として予測できないわけでもないかもしれない。が、普通は誰も予測しない。どこの誰の頭の片隅にもないことに違いない。いや、経験者にはもちろんあるだろう。私以外の経験者が皆無だとは思わないから、多少なりとも注意しながら普段の生活を送っている人も極く稀にはいるかもしれない。しかし、ほとんど全ての人々にとって、これはまさに『不測の事態』である。一生に二度と体験しないだろう出来事だ。

 それは事故であった。幸運にも肘を軽く打撲しただけで済んだが、運が悪ければ死ぬ可能性もないとは言えない危険をはらんでいた。私はバイク通勤をしている。が、それは通勤時に起こったバイク事故ではない。危険なバイク通勤においては、いつも出発前に、
「絶対に事故は起こさん!」
 という気合いを入れ、常に集中を切らさないように乗っている。結果、この日の朝も無事会社へ着くことが出来た。

 会社へ着くと、還暦も近づいてきた大先輩のKさん(男)が皆の分の緑茶を入れてくれる。本来ならば、10年間というもの、この事務所内で一番の下っ端であり続けている私こそがその役目を負うべきなのだろうが、世話焼きはKさんの趣味みたいなものなので、毎朝遠慮なく頂く。今朝も自分の席に腰掛けてお茶をすすっていた。

 最近はCADと呼ばれるソフトを使ってコンピューターで図面を描くけれど、事務所に入った当時、まだ製図は手描きだった。製図板を傾けたりイスの高さを調整したり、前後左右に移動したりが頻繁なので、イスは快適性よりも可動性重視であった。キャスター付き、ワンタッチの高さ調整機能付きの回転イスである。ひじ掛けはない。かなり安いタイプのイスではあると思う。背もたれは曲げ加工したスチールの角パイプ(32ミリ×14ミリ、肉厚1.5ミリ程度)一本で支えられていて、体重をかけるとバネによってギコギコと10センチほどスイングする。このイスに10年間座り続けてきた。キュルキュル移動し、クルクル回り、ギコギコとスイングしてきた。1日8時間、月20日として、10年間で19200時間、その動作を繰り返してきた。1992年製と書いてあるから、私が事務所に入る前にもまだ少し使っていた人がいるはずで、実は20000時間を超えていると思われる。

 いつものイスの上でいつものようにお茶を飲もうと、右手に持った湯飲みを口元へ近づけ、上体を背もたれにあずけた。

「!!!!」

 ところがである。私の体を支えてくれるはずの背もたれはなんの抵抗も示さなかった。寄りかかった私の上体と共にどこまでも後退していったのである。その瞬間、私は何事が起こったか理解できなかった。こんなとき、急遽腹筋に力を込めて体を引き戻すなんて芸当は、どこの誰にも出来ないと断言する。私は為すすべなくそのままひっくり返った。気が付けば、手にした湯飲みはきちんと口を上に正しく保持されていたが、中味は空っぽだった。そこらじゅう一面にお茶がぶちまけられていた。その瞬間を目撃していた人はおらず、あとから、
「なんかすごい音がしたけど」
 とMさんKさんが様子を見に来た時には、私はお茶の拭き掃除をしていた。
「フグウェ!」
 とかなんとか、その瞬間は多少変な声を出した気はするが、とくに叫び声をあげたわけでもなく、周りの人達には物が落っこった程度のことに思われたらしい。

 結局、なにが起こったのか。イスを見てみると、背もたれが見事に倒れきっていた。角パイプの付け根の部分がパックリ割れて一辺だけで繋がっている状態だった。20000時間にも及ぶ繰り返し動作によっていわゆる金属疲労が起こり、ついに破断したと考えられる。背後には堅い本棚があり(柔らかい本棚というのは普通存在しないから堅いのがあたりまえなのだが)、もし頭を打っていたら危ないことになっていたかもしれない。その点無事でなによりだったが、とにかくびっくりしたのである。万に一つも予測していなかったことだから、体は全く対処する術を持たなかったし、精神はとっさの理解力を持たなかった。

 背もたれギコギコでこんな事故が起こるのであるから、欠陥を持った大型車が何万キロも走っていたらそれこそ大変なことに繋がるだろう。もはや脱輪事故も、背もたれ倒れすぎ事故も予測不可能な事故ではなくなった現代日本である。皆様、今座っているイスも緊急点検しておいたほうがよろしいかも知れません。どうかお気をつけて。

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