うんち君のこぼればなし
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うんち君概論

 とにかくいつも腹が痛い。神経が細いのか、今まで30年以上生きて来たが人生の半分は下痢をして過ごしてきたようなものだ。こう書くとまるで1日12時間は下痢をしているようにも聞こえるが、もちろんそんなわけはなくて、排便のうち半分は下痢便であるということだ。とりわけ月曜日と言えば調子が悪い。腹の下る確率は8割を下るまい。月曜日の朝は自殺者が多いと聞くが、私の下痢もまた憂鬱のなせる技か。それほど気分が滅入っている自覚はないのだけれど。

 電車を使って通勤している者にとって、途中の駅を通過する急行電車や快速電車は速くてとても便利なものだ。しかし、腹痛の真っ直中にある時に限っては、それはまさに身の毛もよだつ監獄に他ならない。もちろん途中下車はできないし、近距離の通勤電車にはトイレなど設置されていない。通常なら閉じ込められるのも12、3分の事だが、猛烈に腹の痛いときに限って電車が遅れて動かなくなったりするものだ。いつ駅に到着するかも分からない停車したままの車内で、尻の筋肉を引き締めながら脂汗を流していると、気が遠くなって倒れそうになる。だが、もちろんこんなところで倒れるわけにはいかない。倒れてしまえば括約筋がゆるんで……、てなことになるからだ。私は電車の中でうんこを漏らした人を目にしたことがない。もしも自分がそんなことをしてしまえば今後この電車に乗ることはできない。この近所からも引っ越さなければならない。だから、私は耐える。ついでに放屁も耐える。腹が痛いときは溜まったガスを放出すると腸内の圧力が下がって痛みが幾分か和らぐものだが、こんな閉鎖された空間に異臭を漂わせるというのはどう考えても下種な行為である。私は公共の空間で誰かのスカしっ屁をくわされるのが大変に嫌いだ。臭いのに臭いとも言えず、臭い顔さえできないのはなんとも鬱憤が溜まる状況である。自分が人にされて嫌なことは自分も人に対してしないこと、これが私の人生の大原則だから私の選ぶべき道は放屁をこらえることしかない。

 私は腹の調子の悪いときに数限りない放屁によって四畳半の部屋を異臭で満たしたことがある。部屋にいるあいだは気づかなかったが、一度外へ出てから戻ってくると部屋中にいつもと違う臭いが充満していた。いわゆる硫黄の臭いで、その臭気はまるでどこかの温泉郷に来たのではないかと錯覚しそうな程であった。以来、私はこの硫黄のような臭気を含んだガスを放出する度、「温泉気分!」と言っては喜んでいる。

 もし、これほどに腹の調子が悪い状況にも関わらず満員電車でスカしたとするならば、皆さんを『温泉気分』に浸らすのは必定、そんなことになれば私は罪悪感で白髪が増えるばかりである。だから、やはり私は必死に我慢する。ところが、これはさらに自分を追いつめる選択でもある。便のみならずガスまでも漏らさずとなればその負担は甚大なものとなる。腸内に溜まったガスは内蔵を圧迫し、腹ばかりか胸、さらにはなぜか歯までもが痛み出す始末だ。そのうち行き場を失ったガスは腹の中で移動を始めるのか「ゴボゴボッ」と激しく破裂し始め、あげく肛門の内側で「プウーッ」と音を立てる。こんなに一生懸命耐えているのに「こいつ人耳もはばからず音立てて屁こきやがった」と周りの人々に思われかねない、実に悲しく切ない出来事である。

「私はしてません、本当にしてません」

 そんな弁解を頭の中でしてみても始まらない。もっとも実際にそんなことを言うチャンスがあったとしてもどうなるもんでもないし、そもそもどうでもよいことではある。

 さて、そんなこんなの苦労を乗り越えて会社の最寄り駅までたどり着けたとしたら、もう少しの辛抱だ。あとたったの数分がんばれば良い。ところが、実はここからが本当の正念場なのである。電車の中で立っているだけならまだかわいいもので、これからのことを思えばそんなのは子供の遊びでしかない。歩くこととは足を交互に前へ出し、体を上下に揺すりながら進むことである。足が前後する時、肛門を引き締める力は分散してしまう。体が上下する時、肛門を突き破ろうとする内部の圧力は下向きの加速度を加えてより激しくなる。また、体を上下させることは腸の運動を活性化させ、腹痛の波状攻撃をより短い周期にする。それを防ぐためには、能や狂言で見るような一切の上下動を排した歩き方をするのが良いには違いないが、人目のあるところでそんなことをする勇気はもちろん私にはない。

「もうだめだ、もう歩けない、これ以上歩くと漏れてしまう」
 痛みの波が襲う度、そう言って立ち止まりたくなるが、いかに苦しくとも前進しなければトイレは永遠に近づいては来ない。

「あと少しだ、耐えろ。せいぜいあと3度の苦しみを乗り越えれば夢のトイレにたどり着けるのだ。どうということはない。痛くない、全く痛くない」
 そう自分に言いきかせてそっと歩き続ける。ところが、いつも折悪しく広い交差点で長い信号が赤に変わってしまう。走ればなんとか渡れるかもしれないが、決して走るわけにはいかない。走る体勢に入ったが最後、本当に最後を迎えてしまいそうである。ここは走るよりも立ち止まって静かに耐えることを選ばねばならない。ここで尻の肉を引き締め直し、冷静さを取り戻す。信号が青に変わったら涼しい顔をして再び歩き出す。尻の辺だけは内股の意識を持って、やや早足で歩く。

 こんな時、いつも思う。世の中にこんな苦しいことが他にあるだろうか。もちろんあるんだろう。だが、この苦しみが永遠に続くとしたらどうだろう。ずーっと我慢し続ける状態だとしたら。なぜかは知らぬが漏らせない状態だとしたら。もしもそんなことがあったとしたら、気がおかしくなってしまうかもしれない。出せるということは何とも素晴らしいことだ。解き放つこと、リリース、自由だ。うんこにとっての自由は私にとっての自由でもある。ただし、解放する場所を誤ってはいけない。だから、たとえ苦しくとも、どんなに急いでいても、周りには気を配らねばならない。いつも以上に慎重でいなければならない。万が一、こんな時に車にはねられでもしたら……。生死に関わるほど激しくはねられたならいい。そんな時は「脱糞もやむなし」とみんなも認めてくれるに違いないから。だが、中途半端に当てられたら、それは本当につらい。大した怪我でもないのに「ショックのパー」になってしまったとしたら、心の怪我の程は計り知れない。きっと世の中にはそんな悲しい目にあった人も幾らかはいるに違いないと想像しながら私の足はエレベーター下へたどり着く。

 ついにここまで来た。本当にあと僅かだ。だが、なかなかエレベーターが降りてこない、なんてことになるともう大変なんだが、どういうわけか幸いに割とすんなり乗れることが多い。しかし、行き先は7階、最上階だ。意外とこれが長い時間である。その上動き始めると下向きのGがかかって、腹の中身を押し出す作用が加わるのだからまた苦しい。たいがいは一人で乗っている場合が多いので、この時点でベルトをはずし、ズボンのファスナーは半分まで下げておく。本当はファスナーなど、はじけ開くほどに下腹は張っているのであるが、そこは紳士なので一応半分ぐらいで止めておく。ついにオフィスへたどり着いたら、すかさずトイレへ駆け込む…、ということは決してしない。そこはやはり紳士なので「お……うござ……す」といつものように蚊のなくような声でボソリと挨拶をして(紳士か?)、まずは自分の席へ行くのだ。そこで鞄を置いたらやっとトイレへ向かう。涼しい顔をして普通に歩く。もちろん心の中では鬼の形相であり、おしりの穴は猛烈な力で閉じられている上、よく見ればファスナーも半分開いている。他の人もちゃんと見れば変だと感じるに違いないが、朝からまじまじと私を見る人などいないからそのぐらいは大丈夫だ。だが、ここで気を抜いて走ってしまったりすれば思わぬ落とし穴が待っている。かつて思わず早足になったために「プッ」と音をたててしまった経験が一度だけある。いくら気にしていない人達でもそんな音を耳にすれば私に目が行くだろうし、それがトイレへ駆け込んで行けば全ての合点がいこうというものだ。というわけでどんなに苦しくとも最後の最後まで走ってはならない。

 そして私はついに夢のトイレへ至った。こんな時はドアを閉じた瞬間から腹の中身を解放するまでの時間はほんの2、3秒に過ぎない。本当に苦しかった時のその量ときたら言語に絶するものがある。「よくぞここまで」と感心しないわけにはいかない。再び苦しみを味わわぬようにじっくりとたっぷりと時間をかけて自分の腹を軽くすると、ようやく私はトイレを後にする。こういう時、確かにスッキリとはするが体全体としてはゲッソリしている。急に腹も空いてくるものだ。体中の力が抜け、昼飯を食べるまではふらふらとめまいを感じるのが常である。おそらく家を出る前に比べて3キロは体重が落ちているに違いない。そして落ち着いて自分の席に戻ったときにはすでに15分以上が経過している。

 私の勤めているオフィスはとても小さい。
「社長さんはいらっしゃいますか?」と電話で尋ねられれば、
「ただいま大便をしておりまして、あと10分ほどで出ると思うのですが」
と言いたくなるぐらい、誰がどこにいるのかいつでもすぐに分かってしまう。従って、これ程の時間が経ってしまえば、結局のところ私がトイレで何をしてきたかは既に皆の知るところとなっているに違いないから、入るときにいかに紳士的に振る舞おうとも、それは虚しい努力だと言えなくもない。まあ、気持ちの問題ではある。

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