うんち君のこぼればなし
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T橋君

 “T橋君”と書くと、ほとんどの人は一つの苗字しか思い浮かべないかもしれないが、必ずしもそうとは限らないので、あまり決め付けないように。とはいえ、そうじゃないと言っているわけでもない。

 T橋君は私がかつて勤めていたP社に短期間だけ来ていた特異なアルバイトである。彼にまつわる話はとても強烈で、人々から笑いを引き出すものではあるだろうが、そこに横たわるムードは笑い話だけで済ましてはいけないような物悲しさを伴っているので、この『うんち君のこぼればなし』にて取り上げることにはいささかの躊躇があった。おそらくこの文章を本人が目にして、それが自分のことだと気付いてしまえば、随分楽しくない気分になるだろう。だが、10年以上も前のことであるし、おそらく彼自身、これを自分のことだと気付くだけの洞察力は持合せていないだろうとも思うので、今回思い切って書くことにした。

 彼の特異さはまずはその外見にあるけれど、その辺はあまり詳しく書くべきことでもないので具体的な特徴を述べることはしないが、とにかく一目見ればほとんどの人が記憶に留めるだろう程度のインパクトを持った顔つきをしている。彼には社会性というものがほとんど無いと言ってもよいかも知れない。他人と楽しく会話するといったようなことは出来ないし、そもそも笑顔というものが見られない。当時20歳前後だったと思うが、その少年時代は明るく楽しいものだったろうとは到底思えない。その表情や言動に接してみれば、周囲の人々が彼と距離を置きたがる感覚がたちまち理解できるだろうし、いわば非常識な彼の態度はそれまで人間関係をうまく築いてこれなかった彼の人生史に因るものだということも分かるだろう。

 彼自身の持つ能力、知力というものは明らかに一般より低いように思われる。私は彼と仕事をしたことも話したこともないから、これは噂話と端から見た印象でしかないけれど、彼に任せられる仕事が果たして存在していたのか甚だ疑問である。普通に考えて、彼は邪魔でこそあれ決して仕事の役には立たないアルバイトだった。社員の手を煩わせることが仕事なのか、という存在だったように思う。それでも会社の人間にはお人好しが多かったので、簡単に首を切るということができなかった。

 T橋君が働いていたのは環境計画部という部署だったが、そもそもT橋君を採用したのは設計部だった。

「採用しないだろう、普通」

 と言いたい所だが、どういうわけか設計部は彼を採用した。設計部の悪い癖である。あるいは確信犯なのかも知れない。とりあえず多く採用しておいて、使えないバイトは言葉巧みに他部へ譲り渡すのである。

「バイトが一人余ってるんだけど、そっちでいらない?」

 もしかすると、余っているどころか人手不足なのかも知れないが、それでも毒を抱えているよりはマシに違いない。そうした設計部の謀略により、お人好しの環境計画部や地域計画部では、何人かのお荷物を背負い込むはめになった。異動してきたアルバイトの顔を見て、

「……?」

 と思い、一日使ってみて、

「はめられた!」

 と悔やむのである。私の所属していた地域計画部でもそうして厄介な女性アルバイトを送り込まれたことがある。ちょっとその女性アルバイトの話を挟む。

 そのI浅さんは、基礎的な学力が決定的に不足しているようだった。他のアルバイトなら普通にこなせる仕事もほとんどまともにできない。

「できましたあ!」

 と、明るく元気に報告に来る姿に、

「あれ、早いねえ」

 と、意外に優秀なのかもと思いながらその成果を確認してみると、常人には想像も及ばなかった間違いをやらかしている。そのうえ驚くほど多くの見落としがある。

「なるほど、早いわけだ」

 このまま彼女に仕事を続けさせていてもまともな成果が上がらないことは明らかなので、他のアルバイトに改めてこっそりと頼むことになる。人手不足で雇ったはずが、余計な時間とコストが上乗せになる。それでもやはり、

「クビ!」

 とは誰も言えないので、極く簡単な仕事を頼むしかなくなった。しかしながらI浅さんは意外にもここで優れた能力を発揮した。その仕事とは“お使い”である。女性には特に方向音痴の人が多いものだが、このI浅さんは動物的とも思える優秀な方向感覚を備えていた。どんなところへお使いに出しても決して迷うことがなく、極めて迅速に用事を済ませて帰ってきてくれる。他に出来る仕事はなく、それでいてお使いは完璧となれば、当然部内の全てのお使い仕事は彼女に集中することになる。かくして彼女は買い物、届け物専門のバイトと化した。P社史上かつてなかった専門職である。

「人には何か取り柄があるもんだなあ」

 と、皆で喜んでいたのだが、それからほどなくI浅さんはあっさりと会社を去って行った。せっかく仕事も軌道に乗ったところなのにとても残念だったが、彼女にも考えるところがあったようだ。曰く、

「お使いばっかりでつまらないから」

 世の中はなかなかうまく行かない。

 さて、T橋君へ話を戻そう。設計部の策謀により送り込まれてきた彼は、一目見て並の人間ではないと皆が思った。ジーンズ姿に真っ白い長そでワイシャツという毎日お決まりの服装で、通りすがりの人々を上目遣いで睨みつけるようにジッと見つめる様は、特に女性達を震え上がらせた。私の同期のSた君(“えすたくん”と読んで下さい)は、

「あいつ、いっつも俺のこと睨むんだけど」

 と、極めて不快そうに言った。「睨まれるのは誰もが同じ」と言ってみても、自分だけはなんだか特別に睨まれていると主張していた。Sた君の思い過ごしだろうと周りの人間は思っていたが、実際にT橋君はSた君のことを特別視していたのかも知れない。ある日、いつものようにSた君を睨みつけていたT橋君が、だんだんと近づいてきたらしい。他部のバイトであるT橋君とは仕事もしたことは無いし、口もきいたことは無い。Sた君としてはT橋君が何ゆえに自分に近づいてくるのか見当がつかなかった。そして、目の前までT橋君がやって来るのを黙って眺めていたSた君は、次に思い掛けない言葉を耳にした。

「こないだのお金返して下さい」

「は?」

 Sた君にはその言葉の意味が皆目理解できなかった。

「何の話?」

 そう訊き返すと、T橋君は説明を始めた。その説明は極めてたどたどしく断片的で、理解するまでには随分時間を要したようだが、まとめるとこういうことらしい。

 数日前にバイトの連中数人と社員数人が夕食の出前を取った時に、T橋君がその料金をまとめて支払った。その時立て替えたお金をまだ全部返してもらっていない。だから早く返して欲しい。

 借りた金は早く返さなきゃいけない。T橋君がそれを要求するのは当然である。しかし、それはSた君にはなんの関わりもないことだった。Sた君は金も借りていないし、そもそも出前をとった連中の一員でもない。かつて一度たりともそのグループの中にいたことがないSた君に対して、どういうわけか当然のように金を要求するT橋君の精神構造を彼は大いに不思議がった。

「俺は全然関係ないんだから、俺に言わないで借りたヤツに直接言ってよ」

 Sた君がそう言っても、T橋君はしつこく「返してくれ」と喰い下がったらしい。

「あいつ、おかしいぞ」

 Sた君はおかんむりだった。

 そんなT橋君を使うはめになったのは、当時入社1年目だった女性社員I藤さんだった。どうしたわけか『女王』とあだ名されていたI藤さんは早稲田の修士を出た優秀な人だが、おっとりしていてちょっと抜けたようなところもある。近眼のせいだと本人は言っていたが、自転車で走りながら電柱に激突した経歴もあるらしい。そんなI藤さんはちょっとやそっとでは怒らないやさしさを持った人なので、なんとかT橋君のこともだましだまし使っていたようだが、それでもやはり相当の苦労があったには違いない。そんな彼女のやさしさに甘えたくなったのかどうかは分からないが、ある日T橋君はこんな電話をかけてきた。

「耳鳴りがして眠れなかったので遅れます」

 社員であれば無理しても来るのが当たり前だが、そこは定時の決まっていないアルバイトであるし、来なくても問題ないどころか来ないほうが助かるかも、というぐらいの人なので、I藤さんとしては別に構わない話であったろう。問題は遅れることではない。耳鳴りの話だ。

 T橋君は続けて言った。

「家にいると耳鳴りで眠れないので、今夜I藤さんの家に泊めてもらえませんか?」

 I藤さんはT橋君の言葉の意味をほとんど理解できなかったが、それでも即座に

「ダメです!」

 と、きっぱり答えた。1人暮らしの独身女性が、親しくも無い独身男性をまるでワケのわからない理由で家に泊められるはずがない。しかも相手は明らかに普通の人間ではないのだ。I藤さんは度肝を抜かれたのか、先輩の女性社員であるA井さんにこのことを話した。いきなり家に泊めてくれと頼むことも常軌を逸しているが、そもそも耳鳴りがして眠れないから泊めてくれという理屈が全く理解できない。2人はおそらく首を傾げ合っていただろうが、とにかく先輩であるA井さんがT橋君に強く注意するということになった。

 いよいよT橋君が姿を現した時、A井さんが近づいて行って強く言った。

「T橋君、いきなり女性の家に泊めてくれっていうのは、いくらなんでもおかしいんじゃない?絶対変だよ、T橋君」

 理解できているのかどうかはともかく、A井さんの叱責を神妙に聞いている様子のT橋君だったが、その直後に彼の口から出てきた言葉はまさに衝撃的だった。

「じゃあ、A井さんの家はだめですか?」

 A井さんは呆気にとられた。どういうことなのかよくよく聞いてみれば、こんな事情だったらしい。

 T橋君はアパート住まいだが、廊下を挟んだ向かいの部屋(昔ながらの中廊下型アパートかと思われる)にはうるさいオヤジが住んでいるらしい。遮音性の低い建物なので夜中に騒ぐオヤジの声がうるさくて眠れないのだという。要するにT橋君は日本語にうとかったので、そのオヤジの声を『耳鳴り』と称していたようなのである。これで彼の言っていた、『耳鳴りがするから泊めてくれ』という言葉の意味もようやく理解できたが、もちろんA井さんはT橋君の依頼を断った。

 T橋君という存在はもはや若い女性達に扱える代物ではなかった。もしかするとこの頃には彼女たちもある種の危険性を感じ始めていたかも知れない。そんな時、うまい具合にのこのこやって来たのが経理部の部長、M多さんだった。

「人手が欲しいんだけど、誰かバイト余ってない?」

 夢のような言葉をかけてきてくれた。もちろん環境計画部は笑顔でT橋君を送り出した。

 T橋君は基本的になにも出来ない。しかし向上心は無いわけでもない。自分はワープロを覚えたいと常々言っていた。それでは、というのでやらせてみても、覚えの悪さは並大抵ではない。全くといっていいほど成果があがらないまま時間だけが過ぎて行った。あろうことか、そんなT橋君を環境計画部はワープロ打ちのバイトとして経理部に送り込んだのである。目を剥いたのは部長のM多さんだろう。ワープロの前に座ったままほとんど何もしないT橋君の姿を見て彼は激怒した。

「なんだあいつは!何もしてないじゃないか。あんな奴、クビだ!」

 即刻T橋君は会社を追われた。さすがに経理部の部長だけあって、働きの全く無いアルバイトを飼い殺しにしようなんて考えは露ほども無かった。

 今ごろT橋君はどんな人生を送っているのだろう。少しは笑顔が増えていてくれればいいのだけれど、なかなかそう簡単ではないだろうなとも思う。

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