うんち君のこぼればなし
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T橋さん

 “T橋さん”と書くと、ほとんどの人は一つの苗字しか思い浮かべないかもしれないが、必ずしもそうとは限らないので、あまり決め付けないように。とはいえ、そうじゃないと言っているわけでもない。

 T橋さんは私がかつて勤めていたP社に短期間だけ来ていた特異なアルバイトである。

 と、ここで、
「あれ?前に読んだぞ」

 と思われた方、間違いです。前のは“T橋君”(「T橋君」参照)、今回は“T橋さん”なので別人です。苗字も同じとは限りません。とはいえ、2人は兄弟ではないか?という噂が流れたこともあるので、普通に考えると同姓という可能性が高いかも知れない。が、そうとは限らないので、やはり決めつけないように。

 T橋さんは当時40過ぎの、まず間違いなく独身の男性で、本業は何なのかよく分からないが、なにかのマニュアル書きなどをしていると面接では語ったらしい。一見してちょっと変わった人、癖のありすぎる人と普通なら思うところだろうが、マニュアルを書くというぐらいだから、意外と優秀な人に違いないと、面接担当者がかなり希望的に判断してしまったようだ。他の応募者がこれまたパッとしなさすぎたので、選択の余地があまりなかったという事情もあったかも知れない。結局、希望的な判断は単なる希望に過ぎなかったことを後に知らされることになった。

 とはいえ、例のT橋君に比べれば格段に仕事はできる。あくまでもT橋君との相対的な評価だが、それなりに働いてくれたとは思う。ただ、無理はしない。難しいと思われる仕事は最初から拒否する。私がちょっとした図面描きを頼むと、

「やったことないので出来ません。無理です」

 と、頑なに拒否した。

「別に失敗しても描き直せばいいし、そんなにシビアに考えるほどの絵じゃないですから」

 というようなことを言っても、絶対にやらないと言った。何をそんなにビビるのかと思ったが、なにがなんでも出来ないと言うので、結局私の方があきらめた。

 そんな慎重なT橋さんなので、特にこれといった仕事上のミスを犯したというような記憶もない。というわけで、別に取り上げるべきこともないのかと思うとそうでもない。T橋さんは表面的には明るく、T橋君のように人を睨みつけたりはしない。特に問題ある人ではなさそうな気もするのだが、でもやはり一見してちょっとおかしい。どうもズレている。

 こういうことを書くと、批判を受けるかも知れない。“ズレている”ということで人を面白おかしく取り上げることは、いじめの発想と同じものではないかと言われるかも知れない。ので、“浮いている”と言おうか。なんでもいい。とにかく、世の中の多くの人とはちょっと精神の働かせ方が違っている。そういう少数派の人である。いつも腰からアライグマのしっぽみたいなものをぶら下げているとか、1人オールナイトでディスコの鏡前で踊っているとか、20分おきに冷蔵庫前にやってきてはDoleのフルーツジュース(紙パック)を飲んでいるとか、おかげで40分おきにトイレに入るとか、そういうことは個人の自由であって、特に他人に迷惑をかける行為でもないから、別にどうということではない。面白いけど。

 そういう人はあまり多くないので、

「ああ、珍しいんだなあ」

 と興味を持つのは人間としては当たり前の反応だろう。そこから先、だから気に入らない、苛めてやろうという展開がおかしいのだ。それこそ、粗野な、心の荒れた人間としては当たり前の反応なのかも知れないが、そこは食い止めなきゃいけない。

「珍しいんだなあ」

 というのは、まさに珍しいというだけのことであって、その人の人格を否定するような要素ではない。もちろん、そういうことによって私はT橋さんを否定しようなんて意図は持っていない、といったことは、ご理解頂きたい。

 さて、バレンタインデーというややこしい日がある。私はこの日にチョコとともに真面目な告白を受け取ったという経験が皆無だが(ちなみに、この事実を話すと、ほとんどの方々が「うそだあ」とおっしゃるということを付け足しておきます。私の名誉のため)、もちろんT橋さんもそんなことは経験なかろうと想像できる。いつの頃からか義理チョコなるものが存在するようになって、お互いどうでもいい相手なのに、ホワイトデーのお返しをしなきゃならなかったりして、煩わしいことこの上ない。私自身は今の職場になってから周りに女っ気がなく、そういうしきたりには無縁なのでとてもせいせいしているが、当時のP社にはバイトも含めて若い女性が少なくなかったので、皆さんとりあえず義理を果たしていた。私などはどうせなら大好きなマイクログラインド製法のロッテ・ガーナチョコレートを1枚「ホイ」と渡してくれたほうが純粋に嬉しいのだが、女性たちの立場としてはそうもいかず、色々とおしゃれなチョコを探して買ってこなきゃならないようである。

 この日、T橋さんも義理チョコをもらった。ほんとに義理も義理、

「箱の中から一個取って下さい」

 というぐらいの、これ以上ないという義理チョコだった。そんなようなチョコを3人から、要するに3口でなくなっちゃうだけの義理チョコをもらった。ちなみに私も同じ。

 私の頭の中では、

「この程度の義理チョコに対してホワイトデーでお返しをする義理はあるのか?」

 なんて考えが巡っていて、おそらくは翌日にはもう忘れてしまって、3月14日はいつもと変わらぬ日として過ぎて行ったりしたのだろうが(こういうところがまめじゃない男はモテないみたいですな)、T橋さんはこの義理チョコをたいそう喜んだようである。義理チョコでさえ、もらったのは初めてだったのかも知れない。

 数日後、私が半休して会社に出て行くと(P社では休日出勤の手当てが出ない代わりに、代休を取っていいという事になっていた。私は堂々と半休という形で消費していたのだが、そういう権利を行使するとどうやらボーナスの査定に響くようである。この人で無し!)、なにやら部内の様子がおかしい。女の子たちの表情がこわばっていた。中には震えている娘もいる。

 何事かと話を聞いてみれば、元凶はT橋さんだという。義理チョコをくれた女性たちに対して、ホワイトデーを待たずにお礼をくれたのだそうだ。それぞれの女性にキャンディーか何かを渡したらしいが、そこに手紙が添えられていた。その手紙の内容が3人の女性たちを戦々恐々とさせた。手紙の内容は3人それぞれに少しずつ違っていたようだが、基本的には同じようなものだった。私が見せてもらった手紙は概ね以下のようだった。さすがに私も度肝を抜かれた。

 この前はチョコレートをありがとう。お礼にキャンディーを差し上げます。それから、歌を作りました。歌ってね。(雨雨降れ降れのメロディーで)

 ウキウキあの娘とランデブー
 2人で温泉うれしいな
 ピチピチギャルギャルランランラン

 ムチムチボインのビキニギャル
 お乳にお目目がドッキンコ
 ピチピチギャルギャルランランラン

 歌詞の細部は違うだろうが、大体このままの内容だったと記憶している。3番ぐらいまであったと思うが、あとは覚えていない。他の2人の女性の手紙の内容も同じようなもので、歌が違っているということらしい。

 それにしてもだ。歌わないだろう、普通は。確かに、これをもらって喜んで歌ってみる女性ならT橋さんと気が合うだろうが、そんな人がこの世に存在するかどうかはわからない。少なくともこれをもらった3人の女性はひどくショックを受けてしまった。周りの人間も、

「T橋さんはやばい」

 と思った。今までは、ちょっと的外れで規格外なタイプだが人畜無害、といった見方が大半だった。が、ここへ来てにわかに危険人物と見なされることになった。しかし、T橋さんはあまりにも女性に縁がなかったので、女性に対しての接し方がまるで分からない人なのだろうと私は思った。あまりにも的外れな考えを持っているために、間違った思い込みによる行きすぎた行動が女性にとって危険な場合があり得るかも知れないが、基本的には悪意をもって行動している結果だとは私は思わなかった。手紙を渡した後の部内の雰囲気に対しても特に動ずるところもない彼の態度を見ていると、どうやら彼は3人の女性がその手紙を喜んで受け取ってくれるだろうと信じていた風である。どう見ても40過ぎの男性が書くような内容ではないから、彼の精神性がいかに幼いかが分かるが、彼自身としては本当に彼女たちを楽しませようと思って書いていたに違いない。私の同期のSた君が後でT橋さんに注意したというが(彼は“T橋君”にもかかわったので、なにかと大変なのだ)、T橋さんとしては何がいけなかったのかよくわからない、というところなのだろう。

 T橋さんはその後も問題なく働き続けていたが、自分の都合で一時休んだ後、復帰しようと電話をかけてきたところ、部内の皆の意見により、再度の勤務を拒否された。

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