パラビオシス
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相互理解の問題

 堅い。なんて堅いタイトル。とても読む気がしない人も多いだろう。私も特に面白く書ける気がしているわけではない。そもそもこれから書くことがどこへ行くのか分かっていない。しかし、書いてみる。

 最近、ご意見・ご感想フォームより、こんなメールをいただいた。明らかにご本名ではないので公表するが、差出人は『名無しのみボーナストラック収録』という方。

「コージー・パウエルはエマーソン、レイク&パーマーのパーマー(パウエル)じゃないよ。カール・パーマーと混同してる」

 フランク・フリップのコーナーの「エマーソン・レイク&パーマー」の文章に対するご意見だが、正直、何事かと思った。この文章を素直に読めば、私がコージー・パウエルとカール・パーマーを同一人物のように見ていると受け取れる。どういうわけか“混同してる”と断言されている。

 私は、コージー・パウエルとカール・パーマーが全くの別人であることを知っている。ブリティッシュ・ハード・ロック界のカリスマドラマー、コージー・パウエルさんは残念ながら自動車事故にて既に亡くなっており、片やブリティッシュ・プログレッシブ・ロック界のカリスマ(?)ドラマー、カール・パーマーさんは存命であることを知っている。

 フランク・フリップのコーナーは、原則的にそのミュージシャンについて知っている読者が対象である。だから、そのミュージシャンを知らない人のために基本的な事から説明をするようなことは端から考えていない。そういう人たちは置いてけ堀にしてもいいと割り切って書いている。
ELPの回でも、もちろんコージー・パウエルとカール・パーマーが別人であることを皆が知っているという前提で書いた。だから読み返してみれば、詳しく知らない人にとっては、確かに説明が不足していて、私が二人を混同していると受け取られなくもないような書き方をしてあるようにも感じたので、若干文章に手を加えた。それが2002/05/11付の“一部更新”の真相である。

 だが、指摘をしてきた『名無しのみ…』さんは、当然二人が別人であることを知っているのだから、そういう立場から読んで、果たして私が二人を混同しているように受け取れるものか、実は理解に苦しむ。よっぽど雑に読まない限りはそういう判断には至らないだろうと私は思うのだが、それは私の勝手な思いであって、客観的に見ればそれほどに悪い文章だったのかも知れない。
そんなふうにがんばって謙虚に受け止めて、文章を直したのだが、それでもやはり『名無しのみ…』さんの書き方には多少なりともカチンと来る。タメ口は百歩譲って良しとしても、せめてこんな書き方にしてもらいたいのである。

「コージー・パウエルはエマーソン、レイク&パーマーのパーマー(パウエル)じゃないよ。カール・パーマーと混同してるように受け取れる」

 これでもまだまだ快くはないが、それでも誤解は存在していない。私の文章が悪かった故か、その他の要因もあってか、とにかく少なくとも一人以上の読者にはそういう誤解を与え得るということを正確に指摘している文だ。だが、これを“混同してる”と書いてきたならば、それは完全に相手側の誤解である。私は決して“混同してない”からだ。

 しかし、実はここでもう一つの可能性が存在している。それは『名無しのみ…』さんは全く誤解をしておらず、私こそ誤解をしているという可能性である。ただし、それには条件がある。『名無しのみ…』さんのメールの文章が、彼(彼女?)の言わんとしているところを正確に表現していないという場合だ。『名無しのみ…』さんの言いたかったことは、まさしく、

“カール・パーマーと混同してるように受け取れる”

 であったにもかかわらず、“混同してる”と不正確に書いてしまったとしたならば、私が誤解をするのはやむを得ないとしても、やはりそれが誤解であることに変わりはない。だから、私はこう書かなくてはならない。

「名無しのみボーナストラック収録さんは、私のことを誤解しているように受け取れる」
 あるいは、
「メールの文章が彼(または彼女)の意見を正確に表現しているのだとすれば、名無しのみボーナストラック収録さんは、私のことを誤解している」

 本当のところ、『名無しのみ…』さんがどんなことを言ってきたとしても、実際に誤解をしているのかそうでないのかは、全く分からないのである。表現をする上での能力や注意力の問題、あるいは欺瞞の存在を考慮すれば、表現された言葉と隠された思惟との間には全く整合性がないという可能性も全く否定できない。随分としち面倒くさいようだが、こうした可能性を頭に留めておくことは極めて重要である。

 世の中の争いごとのうち、単純な誤解だけが原因であるものがどれほどの割合を占めるかは分からないが、相互間に確執や憎悪が生じる過程に、誤解という要素がひとつとして含まれていないような場合はほとんど皆無だろうと思う。誤解というものが存在しなくなれば、争いごとは随分減ってくるだろうが、それには完全なテレパシー能力が万人に備わることが必要だろうから、少なくとも今のところは望むべくもない。しかしながら、『表現と思惟との間の不整合の可能性』を常に念頭に置き、注意深く考察・行動すれば、望まざる不運な事故的誤解は減少させることができるはずである。だが、これで大半の誤解が解消されるかと思えば、おそらくはそうでもない。

 そもそも誤解を生じさせるのは不運な偶然ばかりではない。おそらくは、多くの場合、人々は誤解をしたがって誤解をしている。意識的であれ無意識的であれ、憎むべき対象があれば、それを攻撃すべく好んで誤解をし、好むべき対象があれば、心酔し、恋い焦がれるために進んで誤解をする。誤解には積極的に望んでする誤解があるに違いない。ある人間の言動は、その人を好いている立場からと嫌っている立場からとでは受け取られ方が全く違ってくるものだろう。同じ言動も、立場によって悪意によるものとも取られるし、善意からのものとも取られ得る。どちらも相手の真意からはかけ離れた解釈かも知れない。お互いにそんなことをやり合っている関係がそこかしこに転がっている。

 最初に引き金となったのは事故的な誤解かも知れないが、いったん嫌いに、あるいは好きになってしまえば、相手の一面にしか目がいかなくなる。その一面が客観的で正当な見方をされているのならまだいいが、全くの誤解と偏見に満ちていたりすることが少なくないので恐ろしい。こんな事を書くと反感を買うかも知れないが、総体的に女性にその傾向が強いように見受けられる(もちろん男性にも多くある)。

 私の知っている女性は、最近のよくある言い方をすれば、ある男性とまさに“ラブラブ”であった。恋の充実感に満ちあふれてこらえきれなかったのか、他人の前で相手の男性のことを誉めあげてみたり、あるいは人前で軽くいちゃついてみたりで、あまりつき合いを公にしたくなかった男性の肝をちょっと冷やすような行動をとった。うろたえてはいたものの、彼もまんざらではない様子で、やはりともに幸せに浸っている様子だった。ところが、ある時を境に彼女は彼を嫌うようになった。その変化の激烈さと言えばまったく驚嘆すべきものであった。彼には特にこれといって思い当たるフシはないという。彼が知らぬ間に禁断のキーワードでも口にしてしまったのか、あるいは、単発的には無視できた程度の、彼女には少しだけ受け入れがたい彼のちょっとした行動がだんだんと積み重ねられていき、あるときそれが臨界点に達したのか、結局は分からずじまいであったが、とにかく彼女はある時、一気に彼への見方を大転換させてしまった。

 私にもちょっとした経験がある。中学時代、3年間クラスが一緒で、いつも割と気軽に楽しく話をしていた女の子(特別な感情は持っていない。相手も同様だったろうと思う)が、ある日から全く私を無視するようになった。私が彼女に何をしたのか、こちらにはまるで身に覚えがない。私に非があれば謝る用意はあるつもりだったが、“シカト”なので、その理由を彼女も教えてはくれない。実に理不尽で、これこそ女々しい態度というものなのではないかと腹が立ったが、問いただす気にもなれず、そのまま放っておくことにした。私は実際のところ面白くない気分でいたけれど、次第にどうでも良くなってきて、だんだんと彼女のことは気にしないようになった。彼女のシカトはその後も続いた。

 そして数ヶ月後のある日のこと。休み時間の屋外だったろうか、私の足下にバレーボールが転がってきた。不確かではあるが、球技大会の練習で、クラスの女子がバレーボールをしていたような記憶がある。私はそのボールを拾い、近づいて来た一人の女子にボールを投げ返そうとして一瞬ギクリとした。その女子こそ、私をシカト中の彼女だったからである。私は憮然とした表情で彼女にボールを投げてやった。当然、彼女は無表情なまま無言でボールを受け取るものと思っていたが、次に私が見た光景は全く予想外のものだった。彼女は満面の笑みでボールを受け取ると、大きな声で「ありがとうね!」と言ったのである。それは、以前の彼女の姿そのものだった。彼女の態度の豹変振りに、私は訳が分からないまましばらく突っ立っていたが、くやしいことに次第にうれしくなってきてしまった。ここが私の単純でお人好しなところで、たとえ嫌な目にあっていても、最後に良いことがあれば、それまでの不快さをほとんど瞬時に忘れ去ってしまうのである。この性質が他人とのちょっとしたトラブルの元になることもあるが、それは別の話。とにかく、それ以降、彼女の態度は嘘のように好意的になったが、なんとなく意地にもなっていたので、結局、私からシカトの原因を尋ねることはなかった。卒業前、『記念帳』とか『思い出帳』とかいったようなノートをまわして、クラスメイトに何か少しずつ書いてもらうという“風習”が特に女子の間にあったけれど、“シカト”の彼女から私に回ってきたノートは全くの真っさらだった。こういうものをわざわざ一番最初に書かせるというのには、なんらかの思惑があるのだろうとは思ったが、結局私には彼女の心の中で何が起こっていたのかを理解することは最後までできなかった。しかし、まあ、悪くはない気分だった。

 読者の中にもこれに似た経験をした人、あるいはまさにそういう態度を取ったことのある人がいると思うが、この二人の女性に共通する態度、それはあまり感心すべきものではない。私が望んでいる、“これからあってほしい世の中”にとって、これは排除すべき悪癖だと言える。

『全てか無か』、あるいは『白か黒か』というものの捉え方を、できる限り早く取り除かなければならないと思う。『勧善懲悪』の単純至極な物語や、刑事裁判における検察側と弁護側の戦いの図式、多くのスポーツにおける『勝敗』だけの結末、最近ではブッシュさんが世界に呼びかけた、『善と悪の戦い』という、おそらくは“方便”、そしてなによりも、学校教育における『優劣』の評価。こうしたものを常に見せつけられているために、ありとあらゆるものを二元論的な単純さで結論づけようという、賢明とは言えない思考パターンにはまり込んでいる人々があまりにも多すぎる。人間の見方についても、『好きな人か嫌いな人か』、『良い人か悪い人か』という、二者択一の答え以外は全く受け付けない体質ができあがっている。

 以前には“ラブラブ”であり、「全部好き!」と言っていた人が、何かのきっかけで方針を180度転換し、「全部嫌い!」と言う。かつて好きだったはずの部分は無視するか、相手にはそもそもそんな部分はなかったのだとねじ曲げた解釈をする。そんな相手を好きだった過去の自分さえ嫌いになるか、あるいは、自分は騙されていたのだと己に言い聞かせる。

 かつて『良い人』だと思っていた相手の悪い噂を耳にすると、『悪い人』だというレッテルを貼り、それが誤解だと分かればまた『良い人』に戻す。

 この『好きな人』と『嫌いな人』は同一人物であり、『良い人』と『悪い人』も同一人物である。周囲の評価に従って彼ら自身が両極端の性質を行き来していたわけではない。何事もそうだが、特に人間という存在はそんな一つの総合評価にまとめられるほど単純なものではない。彼の中には、彼女が好きになる部分と嫌いになる部分が同居しているし、良いと思われる部分も悪いと思われる部分も同時に存在している。そのことを知らず、人を単一の評価に押し込めて眺めるならば、『悪い奴、嫌いな奴』とされた人間の言動は全て悪意によるものと誤解・曲解され、『良い人、好きな人』とされた人間の言動は全て善意によるものと誤解・曲解されることさえあり得る。実際、そんなことが世の中では当たり前に行われている。

 この二元論的見方の問題は、とても重大で根本的なものなので、これだけで終わりにできるような話ではないけれど、ここでは誤解を作りだす背景として認識しておいて頂くに止める。

『表現と思惟との間の不整合により生ずる誤解』
『積極的に望んでする誤解』

 誤解を生じさせるものとして、ここまで2つの原因を見てきたが、さらにもう1つ大きな原因がある。それは、

『自分の性質に相手を当てはめるための誤解』

 である。このパターンにはまり込んでいる人たちも多くいるけれど、私が見るところ、かつてパラビオシスの関係と思えた堀内と森田(「はじめに」参照)の現在もそうである。

『蟹は甲羅に似せて穴を掘る』と言われるとおり、人は自分の分相応の考えや行いをするものである。お人好しのお人好したる所以はここにある。お人好しとは、善良である人とイコールではない。お人好しとは、自分の善良さを相手にも投影してしまう人である。人々の発想法はまさに千差万別であり、同じ事柄に遭遇したときの人々の反応は全て違っている。善良な人間には全く想像できないような発想を陰険な人間は持つものである。そんな陰険な相手に対して、相手も自分と同じ善良な発想法を持っているという思いこみをしているのが『お人好し』であり、だからつけ込まれ、騙される。しかし、そうした間違った投影をしているのは、お人好しである善良な人達ばかりではない。およそほとんど全ての人が同じ事をしている。陰険な人も、善良な相手に対して、自分と同じ発想法を行っているという思いこみをしている。基本的に善良な人間など存在していない、と考えている人たちは意外と多いに違いないと思う。だからこそ人を騙すことに対してさほど良心の呵責を感じずに済んでいる面があるのだと思う。同じ罠に陥っているにもかかわらず、『お人悪し』(もちろん造語である。念のため)の方が実害が少ないのは、彼らが騙す側であるからにすぎない。長い目で見れば、お人好しであることの方が人生を有意義に楽しく過ごすことができることを私は信じているが、こういう社会に住んでいる以上は、お人好しであることの不利益も理解しておかなくてはならない。お人好しがお人好しのまま無事に暮らしていける世の中こそ理想であるが、そこに至る以前にはお人好しであることは避けた方が無難である。善良であることを捨ててはいけないが、世の中には善良でない部分に支配されている人が多くいるということを理解し、常に注意を向けておく賢さを身につけなければならない。

 お人好しとかお人悪しとかいう立場にかかわらず、人は自分の発想法を絶対視しやすい。相手の行動を自分の発想法に基づいて判断する。堀内と森田もこの罠に陥っている感が強い。二人のキャラクターは随分と違っていて、本来、親しく付き合える間柄ではないというのが本当のところのようである。それだけに、1つの言動に対する解釈が大きな誤解を生みやすい。端的に言えば、堀内は大まか、森田は神経質という区分けができる。

 例えば、堀内がしばらく連絡をよこさないとか、ちょっとした親切に対して礼を返さないとか、そういうことについて森田が感情を害しているようなことがある。森田はそういうことについて気をつける質なので、自分の性格に照らして、そういう行動が相手の不誠実さから出ていると判断する。しかし、堀内の側からすれば、単純に忘れているだけ、ということも多いのだが、言い換えればそのことについて重要視していないということを示してもいる。確かに堀内には、誠実さというものはいちいち行動で示さなければならないという発想はあまりなさそうであるし、実のところそういうことを深く考えていなかったりもする。その点が堀内の欠点であり、改善すべき点であるという見方があるかも知れないという話はひとまず置いておく。そういうことを考えない(考えてたら私の誤解だから、堀内君ゴメン)ことがそもそも不誠実だという怒りであれば、これは誤解とは言えないのだが、実は森田の怒りの内容はそうではない。森田には、堀内の発想法も自分と同じであるという前提に立って判断しているところがあった。堀内と同じ行動を森田が取るとすれば、それは明らかに意図的な不誠実さ、十分認識した上での不誠実さから出ている、と彼は思う(そんな風にはっきり意識していないにしても)。同じ行動を、堀内は違う発想から行っているという可能性に気づいていなかったので、森田は感情を害した。堀内は堀内の考えに基づいた行動をする、ということを理解していれば、もう少し怒りは和らいだに違いないと思う。

 一方の堀内はどうかと言えば、森田のように自分の発想法で相手を理解しようという間違いはあまりないように見える。堀内の方が性格的に大らかで、森田が自分に仕掛けてくるような細かな言動というものがそもそも彼の中に存在しないので、自分の場合に置き換えることができないためだろうが、逆に森田がどうしてそういう言動に出るのかという理由を理解するのは難しい。もちろん、森田の側も堀内を理解することは難しいし、実際のところ人々の相互理解には限界があるだろう。だが、誤解は減らすことができる。森田と堀内の間にも、こうした『自分の性質に相手を当てはめるための誤解』、『表現と思惟との間の不整合により生ずる誤解』、それから生じた不信感に導かれて『積極的に望んでする誤解』が悪循環をなしてエスカレートした部分がある。

 誤解は誤解を生む。それは意味のない争いの種となり、また、幸運にも当事者が誤解を解消する方向で努力をしたとしても、結局は本来必要のないエネルギーを浪費したことになる。たとえ完全に誤解を取り除いたとしても、どうしても受け入れがたい相手の部分というものは残るだろう。そこからはそれぞれの信条や性格の問題となり、それこそ先へ進むことは困難かも知れない。しかし、お互いに誤解のない立場をスタート地点とすることは、相互理解にとっての第一歩である。現在の我々はそこへさえ至っていない。これまでの状況を考えればとても難しい事なのかも知れないが、その先のことに比べれば、おそらくとても単純で簡単なことだ。決してできないことではない。

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