パラビオシス
ホーム      前へ INDEXへ 次へ
信用できない人達

 まず誤解を受ける表題だと思うが、“あいつは信用できない奴だ”とか“怪しい男だから信用しない方が良い”などという、いわゆる“胡散臭い”連中のことを語るつもりではない。“他人の事を信用することが出来ない人達”についての話だ。

 ホームページを持つようになってから、掲示板やメールでいろいろな見知らぬ方々と接する機会ができた。顔が見えない匿名の関係ゆえに、日常の直接的な人間関係の中ではなかなか触れる事が出来ないような個人的な苦悩をさらけ出している人達も少なくはない。別に私に対してその苦悩を告白してくるわけではなくて、その方々の主催するホームページやそのリンクのつながりなどから知る事になるのだが、その悩みの深さにはある意味驚嘆する思いがある。

 一方で、私の身の回りにいる友人や知人と話をしていく中で、やはりどうにも解決できないでいる“漠然とした”悩みを抱いている人達の存在がとても多いことを知った。そうした悩みを積極的に解決しようとしない、あるいはできないでいる人達は、必然的に精神的な不安定さを日常的に抱え込んでいる。その不安定さは、あるタイプの人達では『鬱』という状態として現れる事が多いようで、それがさらに問題の解決を遅らせる悪循環をもたらしているようだ。

 端的に言ってしまえば、彼らは“お人好し”ではない。もちろんそれは“人が悪い”という意味ではなく、気軽に他人を信じられない人という意味合いである。他人を信じられないという事は、すなわち自分自身に対しても信用を置いていないということにほかならない。自分に信があれば、少なくとも世の中には信用を置いて良い人達が幾らかはいるはずだと感じるものである。言い換えれば、他人が自分を信用して良いか迷っている時に、自分は大丈夫だと彼らは言いきる事が出来ない。自分を含めた人間全般に対して信用を持ち切れない状態で生きていると、結局最後はうまくいかないのではないかとか、裏切られるのではないかという不安が常につきまとうことになる。表面的にはそんなことを感じているようには見えず、こちらを信用してくれて付き合っているように思っていると、最後の最後にはさっと身を引かれてしまうような、そんな態度が彼らにはある。

 もちろん、こんな世の中だから、無警戒に他人を信じるお人好しはかえって危険だと言えば全くその通りであって、そんなことを勧めるつもりはないし、そんな風になる必要もないが、少なくとも自分自身と極々身近な人間にだけは信用を置くことが出来なければ、生きて行く上で身を寄せる場所が見つからないだろう。ところが、こうした苦しみにある人々の生活史を眺めてみれば、その多くが家族関係に不信感をもちながら成長してきたという経緯があるように思える。その問題のほとんどは親子関係にあるらしいこともまず間違いがないようだ。極端ないじめとか、犯罪被害といった強烈な体験が人間不信の原因である場合も少なくないとの意見があるかも知れないが、それも身近に信頼の置ける相手がいなかったことが苦しみを引きずる結果に繋がったと思われるから、やはり肉親などの精神的な援助が得られない環境というのが根本的な問題だろうと思う。

 いわば最も信頼を寄せなければならない親に対して、不信感、違和感を持ちながら育ってしまった場合、『人間とは根本的に信じられるものではない』という結論に至るのは当然かも知れない。というわけで、本当に身近である伴侶などに対してさえも、最後の最後には裏切られるかも知れないという思いを抱き続けて、結局相手を信じきれず、自分を委ねきれず、さらけ出せずに、悶々鬱々という状態から根本的には抜け出せないという人々が少なくないようである。

 生まれ持った性格、環境がそうさせたという面が大きく、容易には解決できない難しい問題であることは理解するものの、率直に言って、彼らの言い分を端で聞いていると、実際には多少なりともイライラを感じる。「何だお前は!」と怒鳴りたくなる人が出てくることも理解できるし、実際彼らがそんなふうに怒鳴られる機会は数限りなくあったかも知れない。だが、おそらくはそういう精神状態に最もイライラしているのは彼ら自身だろう。それではいったい何が彼ら自身や周りの人間をイライラさせているのかと言えば、それは『自信の欠如』という一点に尽きると言っても過言ではないと思う。そういう状態に陥ること自体、ある意味止むを得ない面があるとわかってはいても、自分のことを駄目な役立たずだと言い続ける姿というのは、周りにいる人々を不愉快にさせるものだ。

 肉親が彼らに信頼感を与えてくれなかったという事は、言い換えるなら彼らを認めてくれなかったということである。彼らの言い分に聞く耳を持たなかったという事であり、彼らを理解しなかったということである。誰も自分を理解せず、自分にこそ問題があるのだと言われ続ければ、その人が自信を持つ事は困難だろう。しかし、困難ではあるが、不可能ではない。現に、似たような境遇にありながら、そうした自己否定の罠から抜け出している人達はいくらでも存在する。私の身近にもいる。

 私自身はそんな境遇にはなかったから、こんなことを言う立場ではないという人もいるかも知れない。ひどい鬱状態というものを体験したことがないので、その苦しみについては真に理解することはできず、かつて落ち込んだ時の気持ちを増幅させた状態を想像するぐらいがせいぜいだろう。それでも違う立場から言えることはあると思う。鬱になれば極めて激しい自信喪失状態になるし、気力も萎えきってしまうようだから、その状況から積極的に抜け出す方向にはエネルギーを向けることがほとんどできないだろう。そうした状況が長く続けば続くほど、その人の物事の捉え方は、消極的・否定的な方向に固定されてしまう傾向が強まるに違いない。

 そういう状態にある人同士が接触することは、お互いの理解という面で安心感を与えるものであろうから、ある面では有効だろうとは思うが、だが結局の所は積極的な解決の方向に向かう原動力にはほとんどなり得ないというのが本当のところだと思う。そうした、きつく言えば『傷を舐めあうような』関係は、一時的に必要な場合はあっても結局は何ももたらさないだろうということには当の本人同士もおそらく大方は気付いていることだろうから、最初からそういう関係を毛嫌いする人達も少なくはないように思う。というわけで、鬱とは少し離れたところにいる人間の言うことのほうが有意義な面が多いのではなかろうかと、やや調子に乗って書いてみる。

 鬱は病気だと診断され、診断されることによって本人はなんとなく安心することがあるようだ。確かに完全な『鬱病』というものは、もはや日常生活の中での自然な回復がなかなか困難な病気であると言えるだろうが、「病気だから仕方がない」、「心の風邪だからしょうがない」と自分を慰めているだけでは何も変わらないだろう。『鬱病』と診断されるほどに精神状態が悪化してしまうまでには、本人の責任による精神的悪循環の経緯が存在するはずである。

 鬱状態は何の脈絡もなく突然襲ってくるわけではない。多くは幼少期からのトラウマ、刷り込みによって、自分を、他人を信用できなくなっていることに端を発するのだと思う。

「自分は駄目な人間だ。他人は信用できない」

 こうした考え方は、とどのつまり、この世についての信頼感の欠如に至る。

「世の中は、自分の思惑通りに運ぶようにはできていない。上手くいっている人はたまたまそうなっているに過ぎず、何かを一生懸命誠実にやったから報われるというような考えは幻想である。人はいつどこで不運に見舞われるかわからず、全ては偶然に支配されている。もしも偶然ではないとするなら、きっと自分は不運に見舞われやすく生まれついているに違いない」

 もしもこのような思いを抱きながら生活するならば、当然ながら彼らは不安の中で生きることになるだろう。こうした精神的な背景を持ちながら、健全でいられる人はいない。そういった精神的状況にあれば、ちょっとした『心の風邪』を引くことは避けようがないかも知れない。そのことを本人の責任だというのは酷だろう。彼らはきっと何度も何度も風邪を引く。それは当然なのだ。だが、何度も風邪を引くうちに、本人には何かを気付く機会が訪れているはずだと思う。どうして風邪を引いたのか、その原因を探るチャンスはあったのに、彼らはそのことに目を向けず、あるいは気付かずに不養生をし、風邪をこじらす。風邪を予防する根本的な方法があるにもかかわらず、それを知ることのないままに、風邪の度に症状を抑えるための薬を使うだけだ。根本的に体質を改善しない限り、彼らはいずれ重い病に至る可能性が高い。それは『鬱』という症状には限らないだろうが、精神的な危機を迎えることに変わりはない。

 心の風邪を引きやすい体質を改善することは、1人ではほぽ不可能だろうと思う。もしも彼らが家族に絶望しているならば、他人の存在が必要である。家族との関係というものが特別であるところは、物理的にも精神的にもその関係を断ち切ることが困難であることだが、そうしたマイナスの関係を引きずりながらも精神の安定を得るには、友人や恋人といった身近な立場の人間との間に深い信頼関係を結ぶことが欠かせない。おそらく、それ無くしては彼らに本当の心の平和は訪れないだろう。家庭に身の置き場が無く、学校ではいじめを体験し、一時的に非行へ逃避したものの、それでも結局最後には自信を取り戻すことができたというような経験を持つ人達には、そうしたいわば“幸運な”関係がある。しかし、それは果たして運だけで得た関係であろうか。

 人間に対して不信感を持っている人は、そのことが原因となって、他人を遠ざけることが少なくないようだ。本当は誰かを信頼したいものの、一度信頼した上で裏切られることの衝撃の大きさを考えると、最初から浅い関係を維持する方が危険性は少ないという、いわば腰の引けたスタンスを選択している。居心地が悪くなればすぐに切ってしまえるようなそういう関係は、確かに自分の心をかき乱すことにはなりにくいかも知れないが、精神的には特に益にもならない関係だといえる。常に自分の精神を混乱させる肉親たちに比較すれば、無害というだけでも随分とありがたい平和な存在なのだろうが、彼らが本当に欲しているのはもちろんそんな存在ではない。

 一方では、ちょっとした優しさを示してくれた相手に対して、あまりにも簡単に己の全てを委ねてしまうような人たちもいる。彼らは相手の本質を見極めることなく、一部の長所をもとに全てをよしとして身を預けきってしまう。いうなれば、信頼のおける相手を求め過ぎるがゆえの勝手な思い込みに過ぎないのだが、相手が自分の思い込んでいた理想像と違う姿を見せた時、それを自分の見誤りだとはせずに相手の裏切りとして捉える。今までの全肯定が一瞬にして全否定に変わり、場合によっては恨みさえ抱く。こういうタイプはストーカー的な行動に至りやすいかも知れない。

 いずれのタイプにしても、共通して言えることは、彼らが自らチャンスを遠ざけているということだろうと思う。“世の中に自分を理解してくれる人はいない”という立場でものを見ていたり、己の判断力を放棄したような、他人に対しての安易な依存性を持って生きているなら、相手の本質を感じ取ることができないだろう。つまりはどれだけ人間関係をまじめに捉えるかの問題であって、正面から真摯に対峙しない限りはおそらく精神的な空隙は一生埋まらない。人間関係の問題こそ、避けていては解決をみないどころかどんどん悪化して行く大問題だといえる。それは、自分自身の中での問題としての話であって、必ずしも特定の相手との関係全てを解決する必要があると言っているわけではない。すなわち、家族との関係の中で出来上がった自分の精神的な傷は、必ずしも家族との関係の中で修復しなければならないというわけではないということだ。もちろん、それがもっとも直接的で効果の高いアプローチになる場合もあるかも知れないが、あまりに強いトラウマがある場合にはそうした手段は困難な場合が多いだろうし、かえって傷口が大きくなることも少なくないに違いない。むしろそういう関係は、積極的に断つとか、完全に断たずとも遠ざかることが望ましいかも知れない。ケースバイケースだろうが、そこにこだわることで精神的な負担を持ち続ける必要は全くない。

 そうは言っても、肉親(主に親)との関係で生じた圧迫感に支配され続けている人達が、そこから完全に脱することは一生不可能なことなのかも知れない。少なくとも、数年単位では解消できない問題ではある。だが、そうした圧迫感を抱えながらも、他の人間との関係が希望をもたらしてくれることは必ずあるはずだ。“幸運にも”有意義な、人間に対する信頼を取り戻してくれる関係を築くことのできた人達にあって、“不運にも”精神的破綻に追い込まれてしまった人達に欠けているもの、それは“希望”にほかならない。

 絶望の果てにあるものは、自殺か、自暴自棄となった末の反社会的行動か、あるいは無気力、自堕落、精神の崩壊といった結末だろう。彼らの境遇を不幸だとは思いながらも、最終的に辿り着いたそういう結末については、社会はあまり同情してくれないものだ。そこにはまず、彼らの置かれた状況の厳しさを真に理解していないという面も少なからずあるが、境遇はどうあれ、そうした道筋を辿らずに済むだけの機会はいくらでもあったはずだとの人々の思いがある。要するに、結局は自己責任だという認識を社会は持っている。こういう厳しい見方は、当の本人達をさらに追いつめることになりがちである。こうした社会の目にさらされることで、彼らの自己嫌悪感、自信の喪失感はいっそう増す場合が多いようだ。

 自信を失っている人に対しては、厳しい言い方をすべきではないだろう。彼らに必要なのは希望であって、絶望ではない。精神的に弱っている人が厳しいことを言われれば、「普通の人にはできても、自分には無理だ」という焦燥感、絶望感に捕われる可能性が高い。厳しく言われるということは、決して楽しいものではない。ある種の人々に対しては、厳しい態度というものが発奮材料になる場合もあるけれど、繊細で感じやすいタイプの人間にとっては、萎縮させる原動力になりこそすれ、希望をもたらす力にはなりにくい。自己責任であるということは、言い換えるなら自分の気持ち次第で状況を変えられるというということであって、彼らにはこれから先の希望的な面を認識してもらうことが大事だろうと思う。

 “幸運な”人達が持ち続けていた“希望”というのは、次のようなものだ。

「私の人生がこのままで終わるわけがない。こんなに辛い経験をして、幸せを感じないままに死んだのではたまらない。この経験が糧となって、普通の人以上に幸福を感じられる人生を送れるに違いない」

 たとえ、今、まわりに誰も味方がいなくても、真摯に生きていればいずれ理解者が現れる。宇宙はそれほどに酷ではないと私は信じている。実際のところ、一時的にでも理解者が全くいない状況というのはそうそうあるものではない。いないと思っているのは、自分が周りの人間を理解していないからだ。腰の引けた態度や、判断力を放棄した付き合い方をしていては、理解者である相手の心を知ることができない。

「だれも私を理解してくれなかった」

 という言葉は、自己憐憫に浸る人がよく口にする言い方だが、彼らの特徴をよく現している言葉だと言える。人が自分を理解してくれないことを責められるほどに、自分は人を理解して来たと言えるか。確かに彼らは正常な愛情を受けてこなかったという思いが強く、そうしたものを渇望しているのだろうが、それにしても、求める面ばかりが強過ぎる。自分のことばかりに頭を支配されていると言っていい。他人のことを気づかう余裕などない、ということに尽きるのかも知れないが、身の回りにいる人間に対する気遣いもできないようでは、当然ながら求める愛情も受けることはできなくなるだろう。求め過ぎるがゆえに得られないというのは皮肉なことだが、彼らが陥っているのはそうした悪循環にほかならない。他人の心情をよく理解できる人ほど、自分が理解されているかどうかということにはそれほど頓着しないものだ。

 “幸運な”人というのは、その点を理解している。自分を苦しめた人間と、自分を理解してくれる人間とを切り離して考えることができる。自分を理解する人間が全くいないなどとは考えない。『全てか無か』ではなく、世の中は黒から白へのグラデーションであるとか、あるいはモザイク模様のようなものだということを理解している。だから、希望を失うことがない。いつまでも辛い状況が続くはずはないと信じている。辛い状況が終わったなら、その経験をその後の人生の糧にできると思っている。そしてもう一つ大事な点は、自分を全くの役立たずだなどとは思っていないことだ。実際に他人のことを気にかけ、自分のことだけで頭がいっぱいにもなってはいない。

 理解者とはいっても、別に完璧な救世主が現れるわけではない。理解してくれる点もあれば、理解してくれない点も多くあるだろう。だが、最初から全てを理解してくれないからといって絶望する必要もない。理解というのは徐々に深まって行くものだろう。別に理解してくれるから頭が上がらないというわけでもなく、結局人間関係とは持ちつ持たれつなのだ。相手に対して与える面も多くある。苦しみを和らげてもらうこと自体が、相手の人間性を良い方向に変えることもある。最初は助けられてばかりのような気がするかも知れないが、そういう関係が後々違う方向に発展して、いずれは自分が助けてばかりの立場に変わることだってあり得るだろう。実際、夫婦などはそんな関係であることも多いと思う。結局はそういう自分の可能性を信じることをやめないことだ。自分に見切りをつけず、端からあきらめてしまわないことなのだ。

 私には自殺した同僚がいた(「不幸について 〜その4〜」参照)。彼に対しては結局なにもできなかったわけだが、当時は、自殺に至るほどの苦しみにもがいている人間というものに接するのが初めてであったし、彼がそういう道筋を選ぶという可能性に思い至らなかったという面もある。淡泊に言ってしまえば、そもそも、私が彼の面倒を見なければならないという義務はなかったわけだし、そういう力になれる立場にあったかどうかも疑問であるので、彼の死に対しては特に責任を感じているわけではない。だから、私が彼について文章を書いたのは、後悔の念とか、自責の念にかられてのことではない。ただ、興味があった。人間がああいう結末に至る原因はどこにあったのかということを探りたかった。もちろん、そういう人生を積極的に肯定はしないので、できるなら他の人達が彼と同じような罠に陥らないように願っているし、そうした役にたてればよいと思ってはいる。

 Iちゃんの場合、彼の精神を追い込んだそもそものきっかけはやはり家庭にあったと言っていいと思う。彼の生前の発言や、彼が亡くなった後にお兄さんが語ったこと、あるいはご両親と親戚の方から伺った話や私が感じた家庭の印象などから推察したものに過ぎないので断定はできないが、少なくとも思春期には既に問題を抱えていたようである。彼がそうなったのは、劣等感を持ちやすいある種の性格に生まれついていたからかも知れず、そういう面ではそのこと自体が“不運な”ことだと言えないことはないのかも知れないが、それでも彼自身に責任が無いとはどうしても言えない。彼をあそこまで追い込んだのは結局は自分自身なのだと、やはり言わないわけにはいかない。

 絶望は生命力を断つ。自殺には限らず、また人間にも限らず、絶望だけで動物は死ぬという。植物が絶望するかどうかはわからないが、もしかしたら植物さえもそうかも知れない。どんなに困難であろうとも、ひとかけらの希望さえ持てない状況というのはまずあり得ない。いかに可能性の薄い、荒唐無稽な希望であろうとも、それが実現しないとは限らない。少なくとも希望を持つことぐらいなら常に宇宙は許してくれるはずだ。なにも、自分から希望を放棄することはないだろう。

 辛い状況を経験した後、そのままつぶれてしまうか、それを糧にできるかは自分自身にかかっている。立ち直るきっかけは用意されている。見逃して、遠ざけているのは自分自身だ。ちょっと宗教臭い言い方かもしれないが、人生において乗り越えられない試練は与えられないという。私はそれを信じる。もちろんそれは精神的な問題であって、金持ちを望んでも一生貧乏の壁は乗り越えられないかも知れない。体に障害を負ってしまえば一生健康は取り戻せないかも知れない。だが、精神的にはそれをよしとして、最後には満足して死ねるだけの力を人間は持てるということだ。

 チャンスは一度ではない。本人がその気になった時には気がつくだろう。立ち直るチャンスがないとか、自分には能力がないからできないとか言う前にその気になって捜すことだ。斜に構えて人生を醒めて眺めているようでも、愛情を受けず、希望を持てない人生を苦しいと思わない人はいない。自分の人生はそういうものだと自ら思い込ませているなら、もういちど本当に自分の求めていることをじっくり確かめてみることだ。自分の本当の気持ちに気付いたなら、素直にそれに従えばいい。

 部屋の中をぐちゃぐちゃに荒らされたのは自分のせいではないとしても、それをそのままにしておきながら「住み心地が悪い」と言い続けていたら、それはもはや自分の責任だろう。自分がやったわけではない、自分が悪いわけではないからと放っておいたなら、いつまでたっても住み心地は良くならないのだ。自分の部屋を自分が最も住みやすいように片付けられるのは、自分自身でしかないということに早く気付くことが必要だ。周りを見回せば、片付けを手伝ってくれる親切な人もきっといるはずだ。ものを盗まれるかも知れないとか、かえって荒らされるかも知れないと最初から拒否せずに、相手を良く見て判断したほうがいい。場合によっては、盗まれること、荒らされることも覚悟で相手を招き入れる開き直りがあってもいいかも知れない。もし悪い相手だったなら、次は間違わないようにすればいい。経験が自分の目を以前より確かなものに進歩させてくれているだろう。ほんの少しの経験によって全ての人間を見限ってしまうような早計な真似は決してしないでほしい。簡単に希望を捨てず、なによりも自分自身の力を信用することだ。

ホーム      前へ INDEXへ 次へ