パラビオシス
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差別意識について

 “差別”という単語は必ずしも上下の不当な分け隔てを意味するものではない。商品開発やマンションの設計などを例にとると、年齢層や性別によってターゲットを定め、各々のターゲットに対して最も受け入れられやすいメニューを明確に区別して用意することを“差別化を図る”などと表現する。物事や人間の個性にはそれぞれ違いがあることからすれば、商品にもそれに応じた個性を付加することは理にかなったことといえる。感情を排し、売れるか売れないかという観点からのみ評価するならば、ここでいう“差別化”とは全く機械的な区別に過ぎない。

 しかし、その区分けの中に、例えば、“収入別”、“職業別”といった項目が入り込んできたときには、この“差別化”は最も当たり前に使われる意味での“差別”意識に囚われ始める。“収入”や“職業”を例にとったのは多くの人々にとってそれが差別意識を刺激しやすい代表的なレッテルであるからだが、人によっては“性別”や“年齢”、あるいは“容姿”、“宗教”などによって差別意識をもつ場合もあるし、もしかすると“親指の形”とか“腹の下しやすさ”などに対してさえ差別意識を持つ人がいないとは限らない。およそ考え得る全ての差異に対して誰かしらが何らかの差別あるいは被差別意識を持つのが人間というものだ。かつて地上に現れたいかなる聖人といえども、その人生において一度たりとも差別意識を持たなかった者は皆無だろう。

 『病は気から』という言葉がある。昔、当時の中曽根首相(もしかすると首相を退いた後だったかもしれない)が、障害者団体か何かにおいての講演でこの言葉を使ってひんしゅくを買ったことがある。中曽根氏本人は、「病気をはね除ける気力を持って元気に頑張ってもらおうという激励のつもりで」とかなんとかいう意味合いの説明をしていたと記憶している。全くそのままの気持ちで出た言葉だと思う。本当に悪気など全くなく、批判された後でも、「何が悪いんだ」という気持ちを持っていただろうことが想像できる。中曽根氏の言葉に対して全面的に賛同するという人も少なくないと思う。しかし、この言葉の中に確実に差別意識が潜んでいることに皆さんはお気づきだろうか。

 精神の状況が肉体に多大な影響を与えるということは間違いがない。いかなる病気においても精神状態がその一つの要因になっているという可能性は充分にあり得るだろう。『病は気から』という言葉はあながち嘘ではない、というよりも、かなり的を射ていると見ることの方がより妥当なのかも知れない。もしそうだとするなら、真実であることを語った中曽根氏は不当な責めを受けたことになるだろうか。

「うんにゃ」と言いたい。なぜか。

 障害者団体が、選挙におけるダルマへの目入れの習慣に対して、“差別意識の助長につながる”からやめるように働きかけているというニュースを聞いたことのある方もあると思う。その主張に「もっともだ」と即座に賛同できる健常者はほとんどいないだろう。障害者でさえ「そこまでは…」と、戸惑う人が少なくないかも知れない。それだけ、ある意味では大胆な主張だし、悪く解釈すれば“的はずれ”にも聞こえる。

「被害者意識が強すぎるのではないか」
「ネガティブに過ぎるのではないか」

 そういう率直な意見を持った人は多いに違いない。私も最初はそう思った。そんな意識をもってダルマを見ている人はいないだろう、と思った。今でも、いささか行き過ぎの感がある、という見方は捨てていない。反応の仕方が違うのではないか、という思いもさほど変わっていない。しかし、ここにはそれだけでは理解できない問題が含まれているということを感じるようになった。

 ダルマの習慣をやめるとかやめないとかいうことは二次的なことであって、事の本質はそんなところにはない。障害者側の反応は過敏に過ぎるとは思うし、妥当な反応ではないのではないかという思いもあるが、なぜ彼らがそういう反応を示すのか、そこには確かな理由があるはずである。全くナンセンスな歪んだ反応ということで片づけてしまってはならない、重大な根拠があるはずである。それは中曽根氏の発言に対しての反応についても全く同じことだ。

 ダルマについて問題提起をしている代表者は、私の見るところではかなり戦略的に動いているように思える。では実際には感情的な反応はないのかと言えばそういうわけでもないだろうとは思うが、しかし彼はダルマそのものを本当に重視しているわけではなく、その問題を通して差別意識というものの危険な性質を人々に知らしめようとしているように思う。

 彼の言わんとするところはこんなことだ。ダルマは両目を入れることで完全になる。当選者は完全になったダルマと共に喜び、落選者は不完全なままのダルマと共に悲しむ。完全なものは“良く”、不完全なものは“悪い”。それは、健常者は“良く”、障害者は“悪い”という人々の考えを強める後押しをする。表面的には意識されないところでのそうした差別思考から人々が解放されない限り、社会には本当の平等は決して訪れない。

 私としては半分同意できて半分同意できない。思わぬ所に差別意識の芽が潜んでいるという点には全く賛同するが、ダルマの習慣を排除することが意識改革に繋がるとは思わない。むしろ、そういう方法でこの問題に解決をもたらそうとすることは好ましくないとさえ思う。完全なものと不完全なものとの差異を見ないようにすることよりも、むしろ際だたせるようにするぐらいが必要ではないか。際立った差異に対しても抵抗感を覚えず、片目であるとか落選者であるとかいった、悪いと判断されがちな事に対しても差別感や軽蔑の念を持たず、むしろ貴重な体験者としての立場に敬意を抱くぐらいの意識を持てることが究極的には求められるのではないかと思う。

 ダルマ問題や中曽根発言に対して障害者達(ここでは話が分かりやすいので彼らを引き合いに出しているけれど、特に障害者に限った問題ではない)が過敏とも思える反応を示す背景には、彼らが常にさらされている社会の目という問題がある。その社会の目の正体を端的に言えば、“見えにくい差別意識”である。

 自分を差別主義者だと自覚している場合、その人は(自分の身に望ましくないことが起こらないという場合には)被差別者に対して残酷な行動を取ることに躊躇しないだろう。そんな状況は極めて不快なことだが、ある意味でははっきりしていて分かりやすいともいえる。自覚があるだけに、外部からの働きかけによって思想が変化すれば行動も善化しやすいかも知れない。彼らの行動は過激である傾向が強く、事を起こしたときの社会に対するインパクトは大きいが、それでも彼らは少数派であり、社会全体の進路に対しての影響力という点では一時的なものに過ぎないといえるだろう。

 しかし、社会全体にとってそれ以上の問題は無自覚な差別主義にある。上のような自覚ある少数の過激な差別主義者を生み出し支えているのも、実のところは社会全体に蔓延する無自覚な差別主義にほかならない。我々のほとんど、もしかすると全ての人間は無自覚な差別意識を持っていると見て間違いない。その差別意識の多くは、なんらかの社会的な価値が自分より劣る(と自分が判断した)者に向けられる。その場合の差別意識は“優越意識”と置き換えても良い。自分より成績の劣る者に、自分より仕事ができない者に、自分より顔が悪い者、収入が低い者、不健康な者、そして不幸な者にその優越意識を向ける。

 人が他人に対して差別意識を持とうとするとき、そこには、
「だから、差別意識を持ってもいいんだ」
 といういわば“お墨付き”が必要となる。差別意識を持つべき正当な理由がない限り、人は安心して他人を差別できない。“不当に”相手を差別するということが己の良心をかき乱すからだ。差別意識をしっかりと支えている思想があるからこそ、人は安心して差別意識を持つことができる。それは自覚した差別か無自覚の差別かにかかわらない。

 学校という社会においては成績の良い生徒が評価され、また成績を上げることを強く奨励するから、そうでない人間は成績の良い生徒に優越意識を持たれがちであるし、自分でも劣等意識を持ってしまいがちである。そうした意識を持つことを是とする環境が学校社会には備わっているから、そこに属する人間は特になんの違和感もなく安心して差別意識を持つことができてしまう。

 職場においては、仕事が出来る、出世が早い、などといった評価が最大の価値基準になっていて、仕事の出来る人間がそうでない人間を見下してもよいという特権を与えられているかのような環境ができ上がっている。

 もしも、一つの価値体系の中で自分が優越感を持つことが出来ないとすれば、人はその他の価値基準において他人より優っている点を探し出そうとし、出来うるならば、自分が評価されない価値基準よりも自分を評価してくれる価値基準を上に置こうとする。いわば価値基準どうしに優劣を付け、自分をより高い価値体系の中で評価されるべき存在として位置づけようとする。

 例えてみるなら、
「どんなに成績が良くたって、あんなにブスじゃしょうがないわ。女はどれだけ綺麗かってことに価値があるのよ」
「どんなにいい男で女にモテようが、金も稼げない奴は価値がない。男なら仕事でどれだけ金を手にすることができるか、それが最大の価値だ」

 どの価値基準がどの価値基準より上にあるのかなんてことは、この宇宙の中において決まっているものではない、と私は信じる。たとえ決まっていたとしても、そのランキングを知っている者などいるはずがない、と私は思う。だから、自分が評価されている価値基準が最も大切で価値あるものだなどと思っている人がいるとすれば、それはその人の勝手な思い込みに過ぎないだろう。

 さまざまな価値体系の中でも最も価値が高い価値体系があるとするなら、その価値体系において自分が高い位置にいることが最も気持ちの良いことであり、他の価値基準において評価されずとも、それをすべて打ち消してくれる力になる。そういう価値体系を見つけ、その中で自分は高いのだと思ってしまったなら、人がその拠り所から抜け出すのはとても困難なことだろう。

 さて、ここで中曽根発言の話に戻る。彼の発言に強く反発した人たちが常に抱いている気分、それは被差別意識だ。病気であること、不幸だとされる立場に置かれていること、そのこと自体を差別しようという価値体系が世の中には蔓延していると障害者たちは感じている。彼らの感じていることは事実であると思う。

 少し対象を拡げよう。病気であること、障害を負っていることも含め、“不幸であること”に対して、そのこと自体が差別される理由になるという価値体系を“公には”持っていないのが現代の大部分の社会である。ちなみに、ここでは本人が不幸と感じているかどうかとかいうことには関係なく、周囲の人がそう見なした場合にその人を“不幸である”とする。不幸な人間を差別しても良いとか、価値が低いと見なしても良いということは普通、公には言われないし、差別している側も積極的にそういうことを思っているわけではないのがほとんどの場合かも知れない。しかし、そういう見方は隠れたところで確かに存在しているし、それもかなり当たり前に存在している。

 その隠された価値体系を形作っている思想の一つが、多くの宗教に見られるような因果応報の考え方だ。それは思想ではなくて事実だと言う人もいるだろうし、実際事実である可能性も全く否定できないが、事実であろうが単なる思想に過ぎなかろうが、それが差別思考の一因になっていることには変わりがない。

 広辞苑第4版によれば、因果応報とは次のように説明される。

 〔仏〕過去における善悪の業(ごう)に応じて現在における幸不幸の果報を生じ、現在の業に応じて未来の果報を生ずること。

 〔仏〕はもちろん仏教用語ということ。フランスではないので念のため。要するに今不幸な目に遭っている人は、前世で悪いことをしてきた人だということである。

 もしも自分の傍らに、全くの偶然に事故に遭い、あるいは障害を持って生まれ、また難病に侵された人がいたなら、どうして自分ではなくその人なのか、自分と相手になんの違いがあるのかという疑問を持つことだろう。しかしそこに、それは前世に起因する、という思想が持ち出されたなら、その人の疑問は一気に氷解することになる。

 自己責任であることに対して人は厳しい。自業自得だから文句は言えないだろうと、冷たく突き放すことができる。人が最も簡単に躊躇なく軽蔑することの出来る相手は極悪非道の犯罪者である。そういう人間に容赦ない懲罰を加えることに多くの人は抵抗感を持たない。因果応報を持ち出せば隣人に対してもそうした態度を適用する事ができる。

「彼が不幸な立場にあるのは、過去世において悪いことをしてきたからであり、自分が幸福で成功した立場にあるのは自分の過去世の行いが良かったからにほかならない」

 そういう考えを受け入れる事は、身の回りに存在する一見気まぐれな不公平さの理由を説明してくれるとともに、自分は生まれながらにして彼らより良い人間であるという満足感を与えてくれる。犯罪者に対して堂々と軽蔑の念を抱いてもいいように、不幸な人に対しても差別意識をもって構わないという後ろ盾を得ることになる。だから安心して差別意識を向けられる。

 そんな考えは持っていないと主張する人は多いだろうが、はっきりと意識しないまでも、気付かないところでそういう思想に影響を受けている人は少なくないと思う。前世がどうのこうのという極端な話は受け入れられないので、そんなことは自分にはあり得ないという人であっても、陥っている可能性のある思想がある。これもまた思想ではなく事実だと主張する人がいて、実際事実である可能性も全く否定できないが、要するに、“精神が状況を作る”という考え方である。 因果応報という思想と重なる部分があって、見方によっては同じ事だと言えない事もないが、この場合には知りようのない過去世を持ち出す必要は必ずしもない。

 理想は現実化すると言う。本当にそうなりたいと思って行動すれば、必ず成就するのだと言う人たちがいる。私もそう思う。世の中の姿は、人々の考えの具現化したものだろうと思う。

 中曽根氏の話に戻ると、彼のように総理大臣にまでなるような人間の意志は、常人に比較すると異常に強いと言える。そういう人の目から見れば、意志によって状況も変えられないような人間は弱い人間であり、駄目な奴だということになる。もちろん病気だって気持ち次第で治るのだし、治りたいと思っているくせに治せないのは精神的に“なってない”からだ、という思いがある。自分はそんな病気には苦しんでいないし、それは自分の人間としての出来が良いからだとの主張がプンプンとしていたのである。これは聴いている側のひがみばかりではない。彼らは常日ごろから人々のそうした思いを感じ取っているのであって、相手の言動に含まれる思いを知っているのである。だから反発する。強い立場の者に通用する考え方を弱い立場の者に当てはめて計ろうとする態度にどうしようもない怒りを覚えるのだ。

 精神が肉体や状況を変えるという考えは言ってみれば精神的な能力主義だ。結局うまく行かない人は精神的に駄目人間というレッテルを貼られることになる。病気であること、不幸であることが悪い事であり、悪い事から脱する事を全ての人間が望んでいるのだとするならば、そういうレッテル貼りもやむを得ないかも知れない。だが果たしてそうなのか?

 精神が現実をつくるという考えは素晴らしい。全面的に受け入れたい。全ては自己責任において起こることだというのはすっきりしていて大変よろしい。宇宙においては全てが公平であることを感じさせてくれる。そうすると、私は不幸である人について結局こう言っている事になるのだろうか。

「あんたは精神的に努力が足りない。あるいは、過去の罪によってそういうところにいる。はたまた、まだレベルが低いのでうまくできないから不幸を背負っている。これから人生を重ねて、魂のレベルを高めて、精神の使い方を学べばうまく行く。今のところは落第生だね。もちろん、幸福な私は優等生。私について来なさい。教えてあげる」

「うんにゃ」と言いたい。

 そもそも“不幸である”ことが悪い事なのか。それよりも以前に、“不幸である”ということが存在するのか。さらにそれ以前に、“悪い”ということが本当にあるのか。“悪い”とはいったいなんだ?そこまで哲学的な事に踏み込むと収まりがつかなくなるので、もう少し先のことから話をしよう。病気は普通、不幸な事と捉えられる。だが、誰かが難病に侵されたとき、なぜそれが悪い事だと言えるのだろうか。とっとと結論を言ってしまえば、本人はそういう立場にならなければ得られなかった貴重な経験を積んでいる。もしも経験を積む事が人生の最重大事であるとするならば、普通では出来ない経験を積める彼らは幸福な人生を送っているとさえ言えるのではないか。

 以前にも書いたが、難病になった友人の堀内(仮名)は、
「病気にならなければ決してわからなかったことが分かるようになった。俺は病気になって良かったと思ってるよ」
 と語った。やはり難病になったもう一人の友人森田(仮名)は、
「俺はそんな風には思えないな」
 と語っている。普通の感覚で見れば堀内は前向き、森田は後ろ向きと捉えられるかも知れない。しかし、だからといって前向きが良くて後ろ向きが悪いとは決して言えない。堀内は障害によって初めて得られるようになった経験を積極的に受け止めているが(ただ、それも現在の話であって、かつては彼も自暴自棄になったのだ)、森田は消極的に受け止めている。積極的に受け止める事も消極的に受け止める事も、それぞれの立場でしか得られない経験である。森田は消極的でなければ知る事の出来ない状況を経験している。それを良いとせず、つらいと感じる事は、積極的に捉えるようになった堀内には少なくとも今は経験できないことである。こんな事を書くと、森田本人は「そんな経験ないほうがいい」と言うかも知れないが、全ての経験は有益なものだと私は信ずる。将来この経験が何に結びついていくのか(将来とは次回以降の人生の可能性も含めて言っている)わからないけれど、結局のところは『全て良し』なのだと思う。

 彼らの経験は彼らだけのものではない。彼らがそこにそうしてある事が私を含めた周囲の人々に知らしめる事は計り知れない。たとえ貴重な経験であるにしても、当事者である彼らが容易ならざる生活を強いられていることは確かである。もしも、障害者になった友人から学ぶ事を私が欲していて、そのために誰かが難病になる必要があったのだとすれば、彼らは実に困難な役回りを引き受けてくれたと言っていいだろう。そういう経験を積みたい、あるいは自分の存在によって社会に対して新しい経験を与えたいと意識的にでも無意識にでも思っているとき、彼は強い意志の力でもって病気を現実化したのかも知れない。そうではないと誰が言えるだろうか。

 こういう一見過激な思想は反発を買うかも知れないが、私から見れば、そういう可能性に近寄ろうとしない人たちこそ危険きわまりないと思える。決まり切った見方にこだわり、あるいは自己としての明確な見解を常に持って全てを白か黒かに判別しなければならないと思っている頭の堅い人には、こういうあいまいな何でもありのような見方は気持ちが悪くて仕方がないのだろうが、気持ちが悪かろうが何だろうが、正しくないかも知れない結論をもって判断を下す事は理にかなっていない。もちろん割り切りの得意な人にとっての物事は、理にかなっているかどうかよりも都合よく収まりがついてくれるかというところにあるから、そんなことは知ったこっちゃないかも知れないが、そういう政治的な態度は世の中を根本的には変えてくれない。

 日本ではさほどではなくとも、世界的に見れば宗教は人々に深く影響を及ぼしているから、人間にとって最も価値ある事は精神を高める事であって、神に近づいていく事だと考えている人々は多い。金を稼がなくとも、仕事ができなくとも、最も尊むべきことは魂の進歩だという思いは決して間違いではないと私も思う。だがそれだけに価値を置いて良いものか。自分にとって最も大切な価値基準を相手が持っていないことで相手を軽蔑し、下へ置くということが多く見られる。その人なりの価値観に対して否定する権利が誰かにあるのだろうか。魂の進歩に最大の価値を置いている人において、自分より劣っていると感じる相手に対して優越感を持つということは大いなる矛盾である。進歩した人間のとり得る態度ではない。だが、こうした罠に陥っている信仰者は決して少なくない。たとえ信仰者ではないからといっても、こういう差別意識を持っていないと簡単に言い切れる人がどれほどいるだろうか。

 不幸だとされ、目に見えない差別感を押し付けられている人々の多くは、はっきりとしない劣等感を感じ続けている。それは自信を失わせ、気力を萎えさせ、必要以上に体を痛めつけているかも知れない。それは自己防衛のため、彼らから他人への新たな差別意識を生むかも知れないし、非社会的な行動に走らせるかも知れない。人々は自分の中に見えにくい差別意識がどれだけあるか、よく見てみる必要がある。「私にはない」などと簡単に言ってはいけない。そんな人ほど大変なものを抱え込んでいたりするものだ。

 実は私自身がこういう罠にずっと陥っていたのである。傲慢で鼻持ちならなかった。今はそれ程でもない、と思う。一般的に“不幸”だと見なされている立場にある人たちは、のほほんと暮らしている“幸せ”な人たちからすれば考えられないような経験を積んでいる。彼らの存在なくしては社会が経験し得ないことは数限りない。そうした損な役回りをわざわざ引き受けてくれている彼らに対しては、敬意を抱きこそすれ、差別意識など持つ事はできない。私はやっと最近、そんな心境を知るようになった。喜ばしく思う。

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