パラビオシス
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お人好し

『お人好し』は決して褒め言葉ではなく、半ば小馬鹿にしたニュアンスを含む表現である。『世間知らず』とか『甘ちゃん』なんて言葉と同じように扱われる。

「世界に日本人ほどのお人好しはいない。それはそれで素晴らしいことなんだが、それでは他の国につけ込まれる」

 なんてことを言う人が時々メディアには出てくる。だから日本人はお人好しをやめてもっと強かにならなければいけない、と言う。世界の現状を見れば、身を守るためにはそうあらねばならないのかも知れないし、外交レベルでお人好しを通していては確かに危険でさえあるだろう。しかし、だからといって、お人好しを完全に否定してしまったら、それは人類にとって極めて大きな後退だし、そこに未来はないと私は思う。

 私がここで言う『未来』とは、平和な世界のことだ。世の中には暴力的な未来を目指している連中もいるようだから、平和こそが世界中の全て人々が夢想する未来だとはもちろん言えないが、それでも大多数の人々が望んでいるのは、やはり平和に違いないと思う。

 平和な未来を築くためにこそ現在暴力を行使しているのだ、と主張する人々がいる。現在の戦いは未来の平和のためであり、平和に至るプロセスとして止むを得ず戦っているのだ、と固く信じている人々である。『お人好し』に対して厳しい態度を最も強く見せるのは、彼らのようなタイプの人々だろう。

「暴力は何も解決しません。暴力によって平和は訪れません」

 なんてことを言う人がいると、彼らは、

「甘い。そんな人の好いことを言っているうちにあんたは殺されるだろう。悪は力で滅ぼさなければ平和なんて訪れない」

 と言ったりする。が、私から見ると、そんな事を言っている彼らの方が甘い。暴力によって平和が実現すると本気で思っているなら、そんな甘いことはない。確かに、目の前にある巨悪から人々を救うためには止むを得ず暴力が必要になる場合がある。今、殺戮を行っている相手に対して、非暴力の話し合いでは間に合わない。

「人生は一度きりではなく、死は不幸ではない。どんな悪人であろうとも殺すことはよろしくないことであり、だったら殺された方がよい」

 と、皆が思っているのなら話は別だが、そうではないので、防衛のための最低限の暴力までを否定はできない。

 しかし、いずれにせよ、暴力によってもたらされた平和は長続きしない。平和の根本となる人々の心の平穏がそこには存在していないからだ。暴力による解決を短絡的に選択する人間は、悪と見なされて排除された人間とその人間性において大きく変わるものではない。人間の中味が変わっていなければ、同じことが繰り返されるばかりだろう。言い換えるなら、非暴力の世界を求めながら、その手段として暴力を用いるという矛盾や御都合主義を宇宙は見逃さないのだ。

 暴力と非暴力のどちらが難しいかといえば、もちろん非暴力である。人は誰でも、感情を野放しにして、たぎる怒りをエスカレートさせれば簡単に暴力に至る事ができる。そうなるために大きな努力はいらない。己の精神を安易な方向に流し続けてやれば、自ずと暴力が現れてくる。よそ者に対する敵意や、気に入らない者に対する憎しみなどは、簡単に培養することができる。相手を悪意を持って眺めさえすれば、暴力の根はたちまちのうちに拡がりを見せるだろう。心に敵意を持ちながらも非暴力であり続けることは、不可能ではないが簡単ではない。『暴力』の定義を、物理的な力の行使とか、言葉による攻撃、露骨な態度による嫌がらせなどのように、目に見える形の物として限定したとしても、やはり自制によって非暴力を維持することは難しいだろう。憎しみ、恨み、嫉み、嫌悪といった感情を当然のように抱いているならば、それ自体が既に暴力を行使していることと大差ないと認識する必要がある。

 人間がこれほど簡単に暴力的になれるのであるならば、すなわち、暴力的であることは人間に太古から備わった原始的な性質であり、進化した人類が持つべき資質とは対極にあるという証ではないかと思う。対して、お人好しという性質は人間の精神的な進化がもたらしたものではないか。簡単に顔をのぞかせる人間の暴力性というものをうまく制御し、縮小させた結果が、『お人好し』として現れたものにおそらく違いないと思う。

 アホウドリやニュージーランドの飛ばない鳥たちのように、天敵のいない環境に適応した生物は人間が近寄っても逃げることなく、乱獲の揚げ句に絶滅寸前まで追いつめられることになった。平和ボケ日本人とよく言われるような危機感の無さは、アホウドリ達に似た警戒能力の退化と捉えることができる。それを『お人好し』と呼ぶならば、確かにそれは蔑称と言えるだろう。蔑称の『お人好し』は、アホウドリの『アホウ』と同じ意味を持つ。だが、『お人好し』が蔑称とされるのは、彼らお人好しが今のこの世の中に生きているからに過ぎないのだ。

 平和な世界とは、間違いなくお人好し社会である。我々が目指すべきは、お人好し社会なのだ。道端に何億円置いてあっても盗まれない社会。相手を完全に信用しきっても裏切られない社会。警戒する必要がないから、誰もがお人好しでいられるのである。社会の全ての人間がお人好しとなることで、お人好しは存在しなくなる。もちろん悪人も存在しない。それが平和な社会だ。全ての人間がお人好しを目指すことが平和な未来への道だと私は信ずる。

 だが、問題はその過程にある。現在の世の中には、『お人好し』とは正反対にある人々が多く存在している。闇雲にお人好しを通せば、身の安全を守れなくなることは明らかだ。だから、

「お人好しは一切やめなければならない」

 という意見が出てくるのだが、それでいいはずがない。

 日本以外の少なからぬ国では、謝らない文化が根付いていると聞く。自分が悪いとわかっていても、謝ることで責任が生じるから決して謝らないのだと。そうしなければならない背景には、相手もまたお人好しではないという前提がある。謝って責任を認めたが最後、相手はこちらの弱みにつけ込んで必要以上の要求を突きつけてくるからだ。実に嫌な社会だと思う。そんな社会を日本人は見習えというのか。

 お人好しの特徴は、相手をすぐに許すことだ。謝られれば、簡単に許してしまうのがお人好しである。ちょっとしたことなら、謝罪さえあればそれで終わりにする。重大なことでも、誠意ある対応をされれば、必要以上の要求をすることはない。それがお人好し社会の文化だ。

 それに対して、謝らない文化がはびこる社会は疑心暗鬼の社会である。コイツは悪いヤツじゃないか、甘い顔をすればつけ込まれるんじゃないか、殺らなければ殺られるんじゃないかと、相手を悪く捉えることが基本となっている。だが、多くの人々は、用心のために相手をそう見ているのだろうと信じたい。そんなに悪い相手じゃないとは思うけれど、騙されたり、馬鹿を見るのは御免だから、とりあえず相手を信用しない対処の仕方をする。要するに彼らは、

「信じたいが信じられない」

 という立場にある。世の中に悪意のある人間が多く存在する以上、残念ながらそうならざるを得ないのだが、しかし、そのままでは社会は変化しない。だから、我々はそんな風に疑心暗鬼の虜になったままではいけないのだ。とは言え、むやみにお人好しを貫くことはやはり危険である。そこで、我々は判断しなければならない。

「この人はお人好しを通していい人間かどうか」

 そんな風に人間を選ばなければならない。そのためには、人の善し悪しを見分ける目を持たなければならない。いつも己の内面の善し悪しを見つめている人は、他人の善し悪しをも見分けられるようになるだろう。しかし、他人の善し悪しが分かると言っても、もちろん人間は単純に善悪に振り分けられるものではない。私は基本的にお人好しだから、人間はそもそもは善人であるという『性善説』を取るが、悪い面を持たない人はいないし、逆にどんな悪人にも善い面はある。悪が過半を占めていれば悪人、善が過半を占めていれば善人と定義したところで、これが過半だと判断できる人間はいないし、そもそも人の中の善悪は常にその割合を変えているものだろう。つまりは、

「そんなに悪くは無さそうな人だが…」

 という判断がたとえ正しかったとしても、ふと魔が差したように相手の悪性が優位になり、危害を加えられるという可能性だって大いにあり得るのである。

「コイツは絶対に悪いことをする」

 とか、

「この人はものすごくいい人だ」

 とか言えるほどに、極端にその性質が偏っていれば簡単なのだが、いわゆる、

「ビミョ〜」

 という所にいる相手に対してどう対処するかが問題である。どこかの国のような『お人悪し』社会であれば、当然ながら安全側に立って、信用しないことを選ぶだろう。そしてお互い相手を信用しない悪循環が繰り返される。もしここで、

「ちょっと怪しいけど、信用してみる」

 という決断を下したならどうなるか。結局、裏切られて馬鹿を見るかも知れない。そうなれば、人の悪い連中や打算的な人間には、

「だから、お人好しはダメなんだ。甘ちゃんだ、世間知らずだ」

 と言われるだろう。彼らの、底の浅い自分本位の短期的視点では、この結果をそんな風にしか捉えられないだろうが、実はこの決断にはそれ以上の重要な意味があるのだ。それは何かと言えば、相手に対しての影響力である。これこそが世の中を変えるための鍵だと私は思う。

 最近のニュースの中で、私の心を強くとらえた一つの事件がある。

 タクシー強盗を繰り返していた男が、また強盗を働く目的で一台のタクシーに乗った。ところが、その運転手の人柄を見て、

(この人はとてもいい人だ。この人相手に強盗はできない)

 と思った。男は、自分が強盗目的でタクシーに乗ったこと、今まで強盗を繰り返してきたことをその運転手に正直に告白した。運転手は男の話を静かに聞くと、説得し、男に付き添って警察に自首をさせた。

 犯罪者のような人間であろうとも、いい人に対しては好感を抱くのが普通だろう。中には普通でない人間もいるかも知れないが、ほとんどの場合、いい人に対しては悪事を働きにくいし、悪事を働いたとしても罪悪感を持ちやすいだろう。嫌なヤツはぶん殴っても平気だが、いい人を殴れば罪の意識が強いだろう。

 お人好しは相手を信用し、相手を許す。思慮が足りない、ただの不用心なお人好しは危険だが、分別と勇気を持ったお人好しは、人を変える力を持つ。信用したのに裏切られ、その結果、お人好しをやめて、

「私は世間知らずだった。私は大人になった」

 と言っている人は、残念ながら世界の未来を悪い方向へ向かわせる手助けをしている。許さなければ憎しみは消えてなくならない。平和な未来へ向かうためには過去に対する憎しみや恨みを捨てなければならない。憎しみや恨みを持ち続けている被害者は、いずれ加害者になる可能性がある。恨みを持ち続ける意味はそれでしかない。加害者をより大きく変化させるのは、被害者の憎しみよりも、許しである。許され、信用されたことを感じた時に、加害者は自己を本当に見つめ直すだろう。それが出来るのがお人好しという存在なのだ。お人好しの存在価値は、己のためにあるのではない。お人好しは他人のために人の善さを行使するのである。だからこそのお人好しなのだ。

 裏切られてもまた信用する。いつか、変わってくれるに違いないという信念を持ちながらお人好しを貫き通す。真のお人好しには、それだけの覚悟が必要である。全ての人が賢く勇気あるお人好しとなること、それこそが平和な未来へ至る道に違いないと思う。

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