パラビオシス
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こちら側とあちら側

 世界情勢がとてもよろしくない。イラクとテロの問題に、パレスチナとイスラエルの問題、中国では反日感情が高まっているという。

 怒りや憎しみに身を任せて生きるというのは、単純で簡単な事で、なおかつ癖になることだ。ブッシュさんやシャロンさんや石原さんのように、影響力を持つ立場にいる人間が攻撃的で偏見に満ちた単純な思想を持ち、実際に平和的でない方向で権力を行使するということが嘆かわしい。もちろん、テロを行う人達の存在も悲しいし、ついでに言うと、いくらメールアドレスを変えても携帯に届けられるスパムメールの発信者の存在も悲しくて憎たらしい。ついでの部分はちょっと余計。

 シンプルであることは時に重要で優れている場合が少なくないが、複雑である事象を単純化して捉えようとし過ぎると、物事の重大な側面を切り捨てることになりかねない。物事には常に複数の側面があり、その時と場合によって最も重要で適切な側面、すなわち『要点』というものが存在することにはなるけれど、だからといってその他の側面が無視されていいというわけではない。『要点』はあくまで最有力な一側面を切り取ったものに過ぎず、その事象の全てを代表しているわけではない。そこのところを理解しないで、単純化した一つの結論だけを絶対視すると、視野の狭い、全く的外れな考えに頭を支配されてしまう危険性がある。

 思考を停止した人間ほど性質の悪いものはない。思考を停止するとは自分の意志、判断力を捨て去った人間のことを言っている。教祖の言うこと、政府の言うこと、マスコミの言うこと、それらを鵜呑みにして絶対視してしまえば、他の人間が何を言おうと全く聴く耳を持たなくなる。教祖や政府やマスコミが改めて見解を示してくれない限り、決して見方を変えることがない。そして、もし彼らの主導者たちがそうした思考停止の人々を上手く使おうとするならば、『単純化』の手法を用いるだろう。

「アメリカ人は悪魔の手先だ」とか、
「共産主義は悪魔の思想だ」とか、
「パレスチナ人はテロリスト集団だ」とか、
「イスラム教はテロリストの温床だ」とか、
「アジア人は劣っている」とか、
「女はヒステリーだ」とか、
「男は皆、女性を差別している」とか、
「超能力はインチキだ」とか、
「キムタクは日本一いい男だ」とか、
「Macなんて流行らない」とか、
「アメリカ人は皆デブである」
 とかいったことである。

 アメリカ人の3分の2が太り過ぎであるという事実は、
「アメリカ人は皆デブである」
 という表現と、もちろんイコールではない。極端過ぎる表現は相手に疑いを持たせるが、
「ほとんどのアメリカ人は肥満である」
 と言われれば、そうだと思う人は多いに違いない。実際には『太り過ぎ』と『肥満』の定義には明確な区別があり、『肥満』とされるアメリカ人は5分の1に過ぎないという。だが、世の中の多くの人にとって、『太り過ぎ』と『肥満』の区別などはどうでもよいことであり、加えて3分の2だろうと5分の4だろうと、そんな数字の違いもほとんど関心の無い事である。関心が薄ければ自分でそのことについて調べようという気持ちは起こらず、結局与えられた情報を鵜呑みにすることになる。与えられる情報は意図的に歪められていることもあるし、言い訳が立つようにわざと曖昧な表現で誤解を与えやすいように仕組まれているかも知れない。

 完全なウソは見抜かれやすい。その事象の『要点』を拡大して、さもそれが全てであるかのように当てはめてしまうと、半ばウソであっても人々は気付きにくい。否定しようのない事実が含まれているからだ。パレスチナにテロリストがいることは事実であっても、パレスチナ人全てがテロリストであるわけではない。平和を望んでいる人間はイスラエル人にもパレスチナ人にも少なからずいることはお互い想像できても、それは無視しても良いほどの誤差の範囲であって、おおまかにくくってしまえば皆お互いを憎んでいるのだ、と信じているのが現在の状況かも知れない。

「敵の敵は味方」あるいは「敵の味方は敵」という言い方がある。世の中の実情を捉えてはいるが、単純化しすぎていて、とても嫌な言葉だ。
「アメリカに味方しないものは敵だ」
 なんてことを言った人もいた。国と国が仲良くやって行くためには、お互いに共通の敵を見つければ良い、ということで、国際社会は協力して地球外生命体との戦争に備えるべきだ、と言ったどこかの大統領もかつては確かにいたようである。

 人間がグループに属すると、排他的になる。地球人類というグループは、宇宙人を共通の敵と見なした時に団結し、国家連合として戦うだろう。だが地球外の敵に目が向いていない時、国と国とは敵同士となりやすい。一つの国家のなかには、政党同士の争いや、企業同士の競争や、スポーツチーム同士の戦いがある。政党や企業のなかには派閥があり、お互いがしのぎを削っている。東北人は「関西人が嫌いだ」と言い、男達は「女はこれだから…」と言う。キリスト教徒はイスラム教を蔑み、イスラム教徒はキリスト教を憎む。

 己の属するグループを大事にするというのは、自己防衛の延長上で理解できる事ではあるし、グループ内における協調性というものも、決して譲り合いとか美徳ではなく、自己の利益に結びつくから、これもまた先天的に遺伝子に組み込まれた仕組みだという仮説がある。いわば、「情けは人のためならず」という、私の嫌いな打算的な諺を裏打ちするような仮説なのだが、ただし人間の場合、それだけではないかも知れないとも言われる。

 私自身は闘争心が少ないと自覚している。勝負事への執着が足りないから、気のないプレーをして味方の反感を買うようなタイプだ。とはいっても、勝ち負けが全くどうでも良いわけではなく、応援しているチームが負ければ悔しがるし、勝てば喜ぶ。それはそれで、そういうものであるから、行き過ぎなければ良いというところはある。すなわち、フェアプレーであれば、

「敵味方ということにはなっているが、これは便宜上の一時的な立場だから」

 という割り切りを持って楽しむ事ができるということだ。だが、お国柄の違いで、「勝ちゃ良い」、「日本人はずるさが足りない」なんて言葉が出てくると、顔をしかめたくなる。文化の違いではあるのだが、そういう考え方というのは美しくないし、平和的ではない。遺恨を残し、人間の精神の性質上、歪んだ感情を生じさせる元になる。組織同士による戦いは一時的なゲームであり、感情を原因としたものではないという立場をとることは、極端に言えば、戦争においてさえも不可能ではない。

「政治的な理由はいろいろあるのだろうが、戦っている兵隊同士に個人的恨みがあるわけではないから」

 という意識を持ちながら戦っていた兵士たちは歴史上実際に無数にいたであろうし、停戦になれば今まで殺し合っていた者同士が酒を酌み交わすようなこともあり得ない事ではなかった。もちろん、兵士の全てがそういう意識で戦っていた戦争などあり得なかっただろうし、むしろそういう割り切り型の人間は少数に過ぎなかったかも知れないが、それでもそういう冷めた目で、あるいは楽天的な目で眺められる人達というのはいるものだろう。私はそういう人達にこそ希望を感じる。

 感情から発した争いはいつまでも終わらない。誰かが、
「あの国の人間は我々を滅ぼそうとしている」
 なんてことを考えるのは、指導者たちのせいばかりではない。
「気に入らないヤツをやっつけてやろう」
 という思いはそれぞれが個人的に持っているものだ。人間は全く感情的な生き物で、理屈はどうあれ、よそ者に対してはそんな感情を簡単に抱く。そうした思いの強い者同士が複数集まり、また上に立つ者がその感情を後押ししてくれるようなことがあれば、彼らは自信を持って「敵さん憎し」という感情の奴隷となる。もはや相手の真の姿などどうでもいい。相手の行う事は全て悪意を持った陰謀であると理解し、悪に対しては何をやっても良いということになる。

 日本人のほとんどは、尖閣諸島がどこにあるかも知らず、なにが問題になっているかも興味がない。しかし、歴史的経緯の中で日本人全てを色眼鏡で見るようになってしまった中国人グループは、あらゆる日本人、日本に関わる物に対して敵意を向けるように習慣づいているから、文化の違いが元になっているようなささいな行き違いについても、悪意を持った侮辱行為だと見なして怒り、度を越したとしか思えない抗議行動に出る。

 一方の日本人は、連中は何を怒っているのだ、それは不当な怒りであり、だから中国人は…、という思いを抱く。だが、別に中国人全体が怒っているわけではない。もしかすると反日感情を盛り上げたかっている指導者たちが動いているかも知れないが、そうした動きに躍らされるのは中国人ばかりではなく、日本人だって大差ないのだから、馬鹿にできる立場にはない。

 もしも相手が指導者に乗せられるかして、自分たちを誤解しているという事を知ると、誤解している事そのものを含めて、相手をより悪く思うものだ。誤解を解いて仲良くしようと思う前に、悪く思われたことに気分を害して、相手を悪く思ってしまう。いわば『悪く思い返し』みたいなことになる。
「我々を悪く言う前に、お前らはどうなんだ、誤解するお前らこそ悪意があるじゃないか」
 と、グループ全体に悪感情を抱く。実際には誤解しているのは一部の人間なのかも知れないのに、もはやそんなことはどうでもよくなってしまう。

 日本人というグループは一つの精神で出来上がっているわけではない。同じく中国人というグループが一塊の思想で固められているわけでもない。それを「日本人は…」「中国人は…」という括りで捉えてしまうことの問題は計り知れない。日本人と日本人以外、キリスト教徒とキリスト教徒以外、エリートとエリート以外、そうした区別はその人の目から物事の本質を遠ざける。人間は人間としてその“個”を見なければならない。属しているグループはあくまでも目安として参考にすべきであって、決して重きを置くべきものではない。“こちら側とあちら側”とに区別してしまった途端、全ては分裂し、平和は遠ざかる。

 普段の生活の中で、自分がどれほど“こちら側とあちら側”という見方に捕われているか、良く振り返ってみる必要がある。個々人がそうしたところから脱することが、平和への第一歩となる。政府が何を言ったところで、草の根の市民たちのそれぞれが分裂をしていては、なにもはじまらないに決まっている。
「政治が悪い。なんとかしてくれ」
 という前に、それぞれが自分をなんとかしなきゃならない。

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