パラビオシス
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感情の扱い方

 私は感情が激しいほうではない。というよりも、感受性が乏しいのではないかと思うほどなのだが、実は子供の時から涙腺は緩めだったりする。大人になってからの私しか、それも表面的にしか知らない人からすると、私は“しっかりしている”とか“クール”とか“ふてぶてしい”とかいうイメージに見えるらしいが、そのように見られる主な要因は、無理な相手に対しては気を遣ってまで愛想よくしようという気がほとんどないというところにあると思う。私はかなり内向的で人見知りであるので、よく知らない人間に対していきなり愛想よく接しようとすれば相当な無理を強いられる事になる。むろん、それだけの努力を払っても大方はぎこちない会話しか生み出されないだろうが、ほとんどの場合はそんな努力もしない。要するにそういう気遣いが面倒なので、自然と気軽に話せるような相手以外にはいつもシレッとしている。そういう気まずさに対して抵抗感が少ない事を世の中では“ふてぶてしい”というのかもしれないが、沈黙の気まずさのほうが作り笑顔で無理に心無い話を続けるよりは良かろうと思っているので、改善(?)の余地はない。だが、ふてぶてしい故に私は何事にも動じないような人間なのかと思われたら大間違いで、実は気が小さいところがあって、昔から泣き虫で通っていた。だいたい慢性的な下痢症であるというのが気の小ささのひとつの表れだろう。現在では気の小ささとともに多少のルーズさが同居するようにもなったようだが、かつての私はほとんど気の小ささだけで成り立っていたような気がしないでもない。そういうわけで少し強い刺激を受けるとすぐ泣いた。ほとんどの場合は、いじめられて(主に兄に)反撃しきれなかったときとか、親に怒られたけれど納得できなくて、でも言いたい事が上手く言えないときとか、要するに悔し泣きが多かったとは思うが、とにかくよく泣いた。私の子供の頃の小心さというのは本当に驚異的で、それを象徴するような思い出がひとつある。

 小学一年生のとき、担任の先生に、翌日の理科の授業で“あぶり出し”をやるから果物を適当に持ってくるように、と言われた。そのときの担任は引退も間近なおばあちゃん先生で、私は随分可愛がってもらっていたようにも思うが、それでも親しみよりは怖さを感じる、迫力ある先生だった。私はヘマをしでかすことを極端に恐れていたようで、特にあのおっかない先生に怒られるようなことがあったらそれこそ生きた心地がしないという思いを抱いていた。だから、あぶり出しの準備も完全にしていかなければならないと強く思った。私はミカンだけを持っていく事にしていたのだけれど、そのミカンをどうやって持っていったらいいものか、ハタと困った。すなわち、ミカンを剥いていくべきか、剥かずに持っていくべきかということをである。実にばかばかしい疑問なのだが、当時の私にとっては大問題だった。先生は剥いてこいとも剥いてくるなとも言わなかった。もちろん先生からすれば、そんなことはどちらでもいいから言わなかったに過ぎないのだが、私としてはそういう曖昧さを受け入れることが出来なかった。どちらか正しい選択があるはずであって、もし間違った選択をしてしまったら私は怒られるか恥をかくに違いないと、そんな不安を抱いた。私は答えが見つからない焦りと不安で泣いた。母に「どっちでもいいのよ」と言われても全く納得できなかった。先生に電話して訊いてくれと母に頼んだ。私がどうしても泣きやまないので、仕方なく母は先生に電話をしたが、先生はその話を聞くと、やはり「どちらでもいい」と笑いながら答えた。先生がどちらでもいいとはっきり言ってくれたので、私は安心して翌日の学校へ行った(ミカンを剥いていったかそのまま持っていったかはよく覚えていない)。周りの皆を見てみれば、剥いたり剥かなかったりまちまちで、誰からも私と同じ悩みに苦しんだ気配は感じられなかった。私は級友たちの顔を見て、自分の不安は全く馬鹿げていたということを悟った。

 この出来事は多少なりとも私を変えたようだ。人生には選択の幅があるということ、最悪の予測ほどには現実は悪くないということ(最悪の予測なのだから当たり前だが)、を知った。もちろんこの出来事だけでそういう教訓を得たわけではないし、小児のことだからこんなにはっきりと認識したわけでもないが、この“あぶり出し”の一件以降はこれに似た不安というものは劇的に縮小されたように思う。以後で似たような経験をした記憶が皆無である(普通の人の感覚に近づいただけではある)。

 ものごとを“不安感”に捕われた立場でばかり見てしまうのは、なかなかに苦しい生き方だろうと思う。ミカンの皮を剥くかどうかというレベルでいちいち心を掻き乱されていたら、まともに生きてはいけない。だが、「だからやめましょう」と言ったところでやめられるものでもないし、やめていいものかどうかも簡単には判断できない。人がそういう状況に陥っているというのには理由や原因があるのであって、外からの掛け声で簡単に変えられるものでは普通はないだろう。私自身の場合、なにがそこまで私を不安にしたのかすぐに思い当たるものが無い。それ以前の幼少時にトラウマとなるような何かがあったのかも知れないが、現在のところそんな認識は無い。おそらくは生まれついての性格によるところではないかと考えている。

 私の祖母は異常な心配性だった。何かと言えば「心配だ、心配だ」とそこら中を歩き回って、何度も何度も「大丈夫かしら」と訊きに来る。そんなことを何度言いに来たところでしょうがないのだが、とにかくそうした無駄な労力を常に費やす人だった。「そんなに心配したってどうにもならないんだから」と言い聞かせる父はといえば、こちらは悲観主義者だった。といっても深刻で本当に暗い質というわけではなく、あまり趣味のよくない一種の口癖のようなものだったが、曰く、「なんか調子悪い、ガンじゃねえか」とか「今年で死ぬから」とか(亡くなった年の頭にそう言っていた言葉は実際当たってしまったのだが)、マイナスの予測を口にする。野球のひいきチームを応援していても「どうせ、逆転されるんだから」などと言う。「最悪のことを予想しておけば、それより良いことが起こったときに喜びが大きいだろう」と父は言っていたが、起こるかどうかもわからない最悪の事態に心を捕われていては、常に不安の中で生きていかなくてはならないのだ。そのこと自体が肉体にも周辺の空気にも悪影響を及ぼすということを考えなくてはならない。というわけで、私などは楽観的な立場をとることに決めた。その方が人生は有意義であるし、メリットが大きいと思われるからだ。最悪のことが起こったらその時に落ち込めばいいのだ。事前に無駄に落ち込む必要はない。ミカンを剥かずに行って怒られたなら、その時に泣けばいい。どうなるかわからないことに心を悩ます無駄はやめたほうが得策だ。

 といっても、長年の癖というものはそうそう簡単に変えられるものではないし、私のような安穏とした育ちの人間からすれば想像もつかないような経験を経てきている人達にとっては、そうした無責任な呼びかけには怒りさえ覚えるものに違いない。とは言え、『そうした考え方が出来る可能性がある』ということに気付いていない人が少なからずいると思われるので、出来るか出来ないか、あるいは選択するかしないかは別として、とにかくそうした考え方の可能性を知っておくことはひとつの出発点だと思う。感情の量が膨大すぎて一人では抱えきれないようなときには、もちろん人の手を借りることも必要だろうし、場合によっては薬を用いることも止むを得ないだろうが、いずれ一人で対処できる程に改善出来る、という希望が少しでも感じられなければ、結局はそれも一時的な慰めにしか過ぎなくなる。暴走する感情の中にあるときは、全くなんの希望も感じられないかも知れないが、必ず根本的な解決の道があるというほんの小さな確信を消さずに持っていれば、それが足掛かりとなっていずれ変化をもたらすことが出来る。ごま粒ほどの希望であっても、それが完全に心に染み込んでいるなら、自身に正直な生き方や人生そのものを放棄せずに済む。できるなら、そうしたごま粒をいくつかすり込む程度のことは書いておきたいと思う。

 感情は厄介である。特にそれに押しつぶされそうになっている人々には、こんな機能がなければ人間はどんなに楽だろうという思いがあるかも知れない。だがやはりそういうものではないだろう。感情を適切に扱えることこそ自然な人間性であって、その集積が成熟した社会へ向かわせるものだと思う。

 呉智英著の『ホントの話』(小学館文庫)という本を(途中まで)読んだ。感想を極めて感情的に書くと、甚だしく不快な本である。人生においてかつて読んだ本の中で最も感じが悪い。なんで自分はこんなもんを読んでいるのかとイライラした。もちろんこれは私の個人的な好みの話であって、自分の感情的な反応を率直に述べたに過ぎない。この著者に対する社会的評価なり客観的(そんなものがありうるなら)評価がどうであるかは知らない。とにかく私はこの人物の人間性が好きではないと、感情的には反応した。

 私が本屋で本を手にするとき(あるいはネットショップでクリックするとき)は、その時のタイミングで私が最も必要としている本と出会っているに違いないと信じて買うのである。だから、普段の好みと全く違うようなものを手にするときも、なにかいつもとは別な角度から物事を見るための助けになるだろうと考える。だが、さすがにこれは(あくまでも私にとっては)「どうして買っちゃったのか」と思うような本で、「途中で読むのをやめちゃおうか」どころではなくて、「今すぐゴミ箱に捨てちゃおうか」と思うぐらい私の感情にゾワゾワ来た。だが、それでは面白くないし、私の勘もナマクラということになってしまうので、反面教師としてとらえるという意味も含めてもうちょっと我慢して読んでみると、実にちょうどよい話が出てきた。今回のこの稿を書く上でとてもよい材料となる。

 私は呉智英という人の名前だけは随分前から知っていた。だが、どんなものを書いているかは全く知らず、今回初めてこの人の本を買ってみた。この人は、極めて論理的で頭が良い、と自分では思っているように見受けられる。こんな間違いをするこいつは大バカヤローだ、とか、こんなことを言うこの男の頭の程度が知れる、とかいったような言葉がそこかしこに出てくる。年齢は50代後半だが、その歳になってなお、世の中は全て論理で片が付く、片を付けねばならない、という幻想から抜け出せないでいる人のようだ。正論こそ絶対的な価値であり、論理的に正しい自分の主張は正義であって、誰も文句は言えないはずだと思い込んでいる様子である。典型的な左脳人間で、大槻教授や松尾貴史氏と同様、論理で相手を打ち負かすことに無上の喜びを見いだすようなタイプかと思われる。もしも、気の弱い私なんかがこの人の前に立てば、「大甘ちゃんのクソバカタレ」などと言われてすぐに泣いてしまうかも知れないが、泣きながらでも書く。

 ちょっと面倒だが、この人が言っていることを一部まとめてみる。

『支那』という言葉がある。これは、古くはインドの仏典に出てくるもので、『秦』その他が語源と考えられている。これがヨーロッパではChinaとなり、日本では『支那』となった。そもそも『支那』は歴史的な名称であって、中国を蔑視する呼称ではなかった。それが、かつての日本の支那侵略と結びついて、『支那』は中国に対する蔑称だということになっている。戦後、中国政府は正式な国号の使用を要求し、『支那』という呼称を用いないよう日本に通告している(それ以前に二度、中華民国政府は同様の申し入れを日本政府にしているが、一度目は無視され、二度目は半分無視されたという経緯がある)。それを受けて、日本では『支那』という呼称を正式に用いないこととなった。だが、呉氏は『支那』は『支那』だ、決して蔑称ではない、日本でも昔から馴染んできた言葉であるから、そんな差別的な圧力に屈して日本の文化破壊を許してはいけないと主張する。なぜ差別的な圧力であるかと言えば、ついこの間まで香港とマカオを植民地としていたイギリス、ポルトガルに対しては『チャイナ、シーナ』という呼称をやめろと要求せずに、アジアの我々にだけそんな要求をするのは明らかに有色人種に対する支那の差別であるから、と言う。『支那』は侵略とも差別とも何の関係もない世界共通語なのに、日本人にだけこれを禁じるのは、日本人に対する蔑視だ、と言う。『支那』は純粋に論理と筋道の問題である、と言い切る。

 続いて法政大学の趙宏偉助教授との対談がある。なにやらいろいろ言い合っているのだが、私の言いたいことに関係ないのでほとんど省く。実のところ『支那』の呼称問題の是非はここではどうでも良い。呉氏の論理が正しくともおかしくともどちらでも良い。私はこの呉氏のものの考え方に注目している。そのへんで重要と思われるお二人の言葉を引用する。

「もはや支那という言葉には色がついてしまっているわけだから、呉さんが差別のニュアンスなしに使っていても他の人がどう受け止めるかはわかりませんよね。一般的に中国人は支那という言葉を嫌っているのだから、やはり支那じゃなくて中国を使ったほうがいいと思います」…趙

「支那を使うべきではないとする理由の多くは『相手が嫌がるから』という感情論です。でも『不愉快だから』という感情論を言い出したら、論理が成り立たないんですよ」…呉

 さて、呉氏の発言に注意すると、この人が如何に論理を重視して、感情を軽視(ほとんど無視)しているかがわかる。いろんな人のことを馬鹿だアホだ愚か者だと言っている割には、この人は人間というものが全くわかってないんだなあと思う。人間はとても感情的な生き物なのだ。真偽は考えないとして、いわゆるグレイタイプの宇宙人というのは、感情という機能を進化の妨げだと判断して、大昔に自分たちの肉体から取り去ってしまった(善玉グループは現在後悔中)という話を読んでホホーンと思ったが、呉氏のような人が多くなると地球人も将来同じ過ちを犯すかも知れない。

 どうしてこの人はこれほどまでに論理的であることを絶対視するんだろう。理想主義者なのか?おそらくは感情を扱うのが面倒なのだ。論理的であろうとする人は、曖昧が苦手であって、確実な答えが出そうにない感情というものを扱いきれないと感じているに違いない。確実にキッチリと答えが出るはずの問題であれば、論理的に解決していくことこそが宇宙的に正しいことだと信じているのだろう。どうしてそんな妙なことを考えるのか。周りの人達が大槻教授や松尾貴史氏ばかりならいざ知らず、世の中には全く論理的でない人達も大勢いるのだ(大槻教授や松尾貴史氏が本当に論理的と言っているわけでもない)。科学的な議論ばかりが議論ではない。議論は論理だけでなされなければならないと自分だけが決めたところで、現実に感情というものが存在している以上、それを無視することに何の意味があるというのだろう。いったいどこの誰が、感情よりも論理が大事、議論に感情を持ち込んではならないと決めたのか。たとえ誰かが決めたとしても、人類の総意がない限り、感情抜きの議論なんてものはあり得ないではないか。呉氏の言うとおり、『支那』の問題の本質が全く純粋に論理と筋道の問題だとして、それがいったい何だというのか。現実にそれを問題にしているのは総じて日本人よりも感情が激しい中国の人々であり、問題の本質がどうであろうとも、多くの中国人は感情論で『支那』問題を扱っているだろう。彼らは感情を問題にしている。“感情”というものを議題に載せてきているのだ。相手が感情の話をしている以上、『支那』の問題は感情の問題にほかならないではないか。それこそ実に簡単な理屈だろう。

 感情論だけで議論をすれば話はまとまりにくいかも知れない。筋が通れば確かにまとまりやすくはなるだろうが、だから感情を軽視したり排除するべきという前提こそ、呉氏の陥っている根本的な誤りであろうと思う。べきだろうとべきでなかろうと、そもそも全く感情抜きで議論の出来る生物などそれこそグレイのような連中しかいないに違いない。人間と人間が話をするのだ。感情をひっくるめてお互いが納得する道を探さなければ世の中は上手く行かない。筋が通らないから、相手の感情は考えずにつっぱねてもそれが正しいのだ、なんて言っていたらそこら中が争いだらけの世の中になる。皆がもっと賢くなり、感情の扱いも上手くなったなら、論理だけの議論というものも受け入れられるようになるのかも知れないが、今はまだそんな世の中ではない。あまりにも理不尽な感情論には筋道を立てていかなくてはならないだろうが、全てを正論だけで成敗しようなんて幻想に取りつかれていたら、社会の成熟はもっと遅くなるに違いない。感情を重視し過ぎてもいけないが、決してないがしろにしてはいけない。

 感情の表れ方は個々人の思考形態や性格に強く依存している。感情のこうした自由度の高さが、呉氏のように、感情を信用せず、下に置いてしまいたくなる人が出てくる理由になっているとも考えられる。同じ刺激を受けたとしても、感情的な反応はその人によってまちまちである。また一個人の中においても時期と状況によって、反応はその都度変化する。感情は、刺激に対して自動的で確実に予測可能な答えを返してくれない。たとえば近しい人が亡くなったしても、気も狂わんばかりに号泣する人もいれば、まったく涙を流さない人もいる、ということだ。人間には生まれつき備わった“自然な怒り”(15秒ほどで収まるらしい)があるというが、人類のほとんどの感情はそれぞれの人格、思想、習慣等によって大幅にカスタマイズされていて、もはや“自然な感情”だけで物事に対応できる人は皆無だろう。感情をいつも野放しにしている人は、必要以上に事を荒立てる人間になるだろうし、感情を抑圧しなければならない状況にある人も、結局はねじれた形の感情の爆発を迎えるだろう。感情を不要なものとして扱っている人は、情緒に欠ける寒々しい人間になるかも知れない。いずれにしても、感情の極端な扱い方を続けてきた経緯があるなら、その人が現在感情に不具合を感じ、その対処に苦慮している状況があるとしても不思議ではない。

 感情が極端に激しかったり、逆に極端に希薄だったりすれば、それがその人の行動を方向づける。怒りの制御が利かなければ当然暴力的になりがちだろうし、抑鬱的な感情に支配されれば、死の誘惑に駆られやすいだろう。情動が現れにくくなってしまった人は、行動の指針が自己利益に偏りやすいかも知れない。これらの傾向はおそらくかなり標準的なパターンだろうと思うが、だからといって必ずこうなるというものでは決してない。どんなに落ち込もうとも、それが自殺という行動とは結びつかない人はいるのであって、それは誰にでも可能なことのはずだ。行動はもちろん感情にのみ支配されるわけではないからだ。行動を決定する要因は多分にその人の思想、信条による。激しい感情は行動の決定権を奪い取ろうとするが、強固な思想、信条はそれを許さないだけの力を持っている。感情に流される人は、行動の決定権を自ら感情に譲り渡しているに過ぎない。拠るべき信条を持たない人は、そうした選択をするしかないからだ。しかし、強固な信条、信念は感情よりもはるかに強い。

 思想、信条、信念は、感情から行動の決定権を力ずくで守るだけではない。感情そのもののあり方をコントロールする唯一の真っ当な手段でもある(あまり好ましくない、如何わしい方法もいくつかはあるだろう。催眠であるとか、薬品であるとか)。自然な感情はある種のサインであって、行動の指標となる重要な役割を持つ。だが、感情はあくまでも補助的な道具として用いるべきものだろう。感情の持つある面での心地よさというものは、時には精神を修正し、癒しを与えてくれる。たとえば、思い出と強く結びついた感傷などは特に若い女性が好むところであろう。さほど悲しい記憶でもないのに、思い出の曲を聴きながら昔を思い出すと感傷的な気分になる。ときには感情のこうした使い方も体と心に良い効果をもたらすのかも知れないが、その感覚に溺れてやたらと感情を肥大させると、もはや害ばかりが大きくなる。そうした不適切な感情の用い方を制御するには、やはり思想、信条に頼るしかない。

 しかし、だからといってどんな思想でも持てば良いということではもちろんない。中には、感情を巻き込んで、より破壊的で無秩序な行動を選択させるような思想、信条も存在するし、(呉氏のように)全く感情を軽視してしまうような思想もある。では、どうやって適切な思想、信条、信念を身に付ければいいのか。そんなことは簡単に言えるわけがない。が、大切なことを一つ言えば、“感じ”に従うということだ。今、ここを読んだところで、一気にしらけ、鼻で笑うタイプの人々がいることは分かっているが、これぞ私の信念である。“感じ”とは、言い換えれば“ひらめき”、“衝動”、“インスピレーション”、“印象”、“勘”、“直感”などである。この辺のことについてはまた別の回に書くけれど、とにかく、自分の感覚を信頼することほど重要なことは無いとだけ言っておきたい。

 まずは、自分を観察する。感情に好き勝手をやらせる癖をつけた人にとって、最初は難しいだろうが、自分の感情がどういう状態になっているのか、その都度じっくり眺めてみる。とにかくただ眺めてみる。感情をコントロールしようという気持ちを持つ必要はない。むしろコントロールなどしないつもりでただ現状を正確に眺めてみるよう関心を払うのである。「肥大した感情はいけない」などという先入観に捕われてしまうと、無理に感情を抑圧してしまうことに繋がる。感情を抑圧して表さないことを目指すのではない。感情の質を変えるために観察するのである。観察という行為自体が、感情が野放しになることを防ぎ、観察によって問題を知ることが、感情の質の自然な変化を促すのである。

 感情による苦しさ、混乱、興奮など、それを冷静に見つめていると、だんだんとその感情の正体がわかってくる。まがい物なのか、本物なのか。原因のつかめない感情の発現を認めた時には、それが自己変革の鍵になる。言い換えるなら、未解決のトラウマや、不適切な心の用い方による弊害の蓄積といった遠因を発見して解消する機会となる。問題ある感情には必ず原因があることを知り、自然な了解可能な怒りであるか、歪んだ理不尽な抑鬱であるか、あるいは興奮がそれ自身でエスカレートして必要以上に高まっていないか、そうしたことを自分で“感じ”られるようになると、己の行動の規範となるような信条が自然にできあがってくる。そうした信条により自分の生き方を再確認できるようになると、感情の観察作業はより確実性を増す。そして、今まで目をつぶってきたために気付かないでいた不可解な感情の遠因を自分で見つけられるようになれば、もはやそれを放っておくことは出来なくなる。それを解決しないことには前へ進まないことを直感的に知ってしまっているからだ。

 もし、「感情に身をまかせて、それが望みなら死を選んでもかまわない」という考えをもっていたなら、おそらくその人はいずれ自ら死んでしまうだろう。だが、そうした考え方は、本当の“自分の感覚”、「これで間違いない」という力強い確信のもとに形成された信念では決してない。本物のひらめきは、その人の生における最適な選択を促してくれる。その中には、自ら命を絶ったり、破壊的な行為へ駆り立てるような衝動は含まれていない。自らを解放して次なる世界へと向かおうとする本物の衝動に忠実に従う勇気さえ持てれば、もはや感情の虜ではなくなるだろう。感情は重要な機能であり、決してないがしろにしていいものではないが、あくまでも脇役にすぎない。それに主役を奪われてしまったら、その人の進路はどこへ向かうのか分からなくなる。

 自己の本質は感情よりも絶対に強いものだ。たとえ今は感情の波に呑み込まれてどうしようもなくとも、自己の本質に対する信頼が一かけらでも残っていれば、いずれ感情を手なずける道が開ける。物事には適切な時間が必要である。長い間、全く何の変化も訪れないとしても、慌ててはいけない。焦る必要もない。解決のためには、“待つ”と言う経験が不可欠な材料であることも少なくない。決して自己への信頼を捨て去らないことだ。自己の本質への信頼を失わせるものは、自分自身以外にはあり得ない。自身があきらめて放棄してしまわない限り、苦悩は必ず取り除かれる。反対に、根本に立ち向かわない限りは、本当の解決は決して訪れないだろう。

 これが私の絶対的な確信である。根拠は何かと尋ねられるかも知れないが、根拠らしい根拠など無い。強いて言うなら、こんなようなことだ。

「もしそうでなかったら、人生など辛くてやってられないではないか。だから、そうであるに違いないのだ。宇宙はきっとそんなふうに我々に都合よく出来ている。都合よく解釈すればそれを許してくれるのが宇宙の寛大さなのだ」

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