パラビオシス
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否定する人々

 テレビ朝日の“TVタックル”という番組がある。その番組の人気企画に“超常現象バトル”なるものがあって、年に数回はやっていると思う。見たことのない人のために説明をしておくと、UFO・宇宙人、心霊、超能力、UMA(未確認生物)といった、いわゆるオカルトの分野について、肯定派と否定派に別れて議論、口論、口喧嘩、罵り合いをやるという企画である。常連の出演者としては、肯定派が、オカルト分野の出版社の老舗、たま出版の韮沢編集長。この企画には欠かせない名物男である。また、秋山真人氏が以前は良く出ていたが、最近は嫌気がさしたのかすっかり顔を見せなくなった。その他の肯定派はテーマごとにいろいろな有名・無名人が入れ替わりで出てくる。一方の否定派は早稲田大学の大槻教授とタレントの松尾貴史氏が欠かさず出演しているようである。野坂昭如氏も常連で出ているが、あの人は時々茶々を入れる程度の役回りのように見える。

 私はこの企画を単純に楽しんで見ることができない。というよりも、大変に気分が悪い。それならば見なければいいと言う意見があろうが、情報的には面白いことも出てくるので、それを目当てに見ることがある。別に見なくてもいいのだが、嫌なものを見ればそれもまた色々と得るところがあるので(この文章のネタにもなる)、有益かも知れない。

 そもそも、この企画は真摯なものではないので、その内容自体に目くじらを立てても仕様がない。時代は随分と変わってきたと思うのだが、未だなお、超常現象の有無に白黒つけようという観点から番組を作っている姿勢に驚かされる。いや、むしろ本気で白黒つけようというつもりでやっているならまだしも、実のところ制作者側の意図はそんなところにはなくて、パネラーがどれだけ面白おかしく罵り合いをやってくれるかというところが本当の狙いである事が察せられて、なんとも不快なのである。なんと虚しく実のない事をいつまでも繰り返しているものだと思うが、それでも拾い上げるべきものが何もないわけではないので、それを見ていこうと思う。

 超常現象が実際どうなのかという問題はここではどうでもいい。そもそも議論と真実との間には何の関係もないのである。私がここで書きたいのは、それを議論(議論とは言えないようなレベルだけれど)している人達のパーソナリティについてである。肯定派と否定派に陣取るそれぞれの人間性は実に対照的だ。番組を盛り上げるために、あえて極端なタイプを多く出演させている嫌いはあるが、それでもここで見られる両陣営の特徴は世の中一般にかなり当てはまるものだと思う。出演者達の言動にはある程度の演出が感じられなくもないし、もしかしたらかなりの部分がつくられた発言という可能性も考えられるけれども、たとえそうだとしても(相当に地でやっているように私は感じるが)、その様子はとても自然に見え、そういった立場を強力に主張する人達の特性を完全に表現していると思えるので、ここではそれらを彼らの偽りない考え方、態度だとして捉えることにする。材料を提供してもらうという意味では、それが本物でも偽物でもどちらでもいい。だから、これから私が書くことについては、全て、『仮に彼らが本気で言っているのだとすれば』という前提が付くと思ってもらいたい。

 現代の日本においては、いわゆる超常現象的なことを何一つ信じないと言う立場をとる人は、少数派であると思う。色々なメディアで時々目にするアンケートなどを見るに付け、そういう印象を持つ。年代にも、対象とする事物にもよるだろうが、多くの人は、あるものは信じ、あるものには懐疑的であるという立場だと思う。要するに一番の主流は肯定派とも否定派ともいえない中間派だろうと思うが、それでも個々の事柄については頑なな肯定派、否定派となる場合もあろうし、何かに煽動されれば全く簡単に極端な考えに傾く可能性を持つ人々は多いに違いない。ある事柄に関してだけは頑として譲らないという部分が多くの人にはあると思う。だが、なにごとも、決めてかかる必要はないのだ。もちろん決めてかかるのも自由だが、それを受け入れようとしない人達に向かって強引に自分の考えを主張して押しつけようとするのは、決して好ましい態度とは言えない。それは子供がよくやることであって、成熟した大人の態度ではない。そういう観点に立てば、ああいう番組の企画はそもそも成り立たないのだが、そんなことに番組制作者も出演者も気付いているのだろうか。気付いてはいるが、ただ、視聴率が稼げればいいと考えているのだろうか。

 それぞれの陣営の印象を相手方が表現するなら、おそらくこんな言い方になるに違いない。

 まず否定派から肯定派を見れば、『お人好し』、『騙されやすい奴』、『子供』、『無知』、『単純』、『世間知らず』、『イカサマ』、『インチキ』、『ペテン師』、そして『馬鹿』。

 一方、肯定派から否定派を見た印象と言えば、『頑固』、『融通の利かない奴』、『虚栄心の強い奴』、『科学教信者』、『頭でっかち』、『偏見のかたまり』、『傲慢』、『不遜』、『失礼な奴』、『嫌な奴』、『いけ好かない奴』、『憎たらしい奴』、『腹立たしい奴』、『性格の悪い奴』、『付き合いたくない奴』、そして『救われない奴』。

 もちろん、これは私が勝手に予想したものなので、実際には彼らの持つ印象とは違っているかも知れないし、その印象自体、相手の実像とはかけ離れている可能性もある。

 肯定派の中には、とにかく面白さ第一で連れてこられたようないかがわしい輩もいて、同じ肯定派内でも『一緒にしないでくれ』といった雰囲気に包まれている場合も少なくないから、そもそも一緒くたにすることにも無理があるのだが、それでも否定派からすればみんな同じ『馬鹿』に見えるようだ。

 個人的な感情を言わせてもらえば、とてもじゃないが否定派を応援する気にはならない。事実がどうであろうと、そんなことには関係なく、あの失礼で傲慢で人を小馬鹿にした憎たらしい態度は人間として尊敬に値しない。どんな人間に対してでも尊敬の念を持てることが進歩した精神の証ではあるのだろうが、私にはまだまだなかなか難しい。

 立場的に言えば、否定派であることの方が難しいのである。物事の可能性を完全に否定することは、何事においてもほとんど不可能であるからだ。我々は宇宙の全てを知っているわけでは全くないので、何かがあり得ないとすることはナンセンスと言ってもいい。我々の想像を超える事実が存在する可能性などそれこそ無限にある。一方の肯定派の立場は相対的にとても簡単である。何かが存在する証拠を一つでも示せばいいのだから。だが、実際にはそう簡単でもない。まず、決定的な証拠がないのかも知れない。次に、証拠があったとしても、人々にそれを受け入れる余地がなければそれは認められない。事実と認めなければならない何かを突きつけられたとしても、人々の間に受け入れることを拒否する力が働けば、それは無視されるものだ。個人的にも社会的にもである。

 否定することが難しいにも拘わらず、否定派は強い立場にある。それは、世間的に認められていないことをなにも語らないように見えるからだ。肯定派の信じるところは、未だ結論の出ていないことである。証拠があろうがなかろうが、事実であろうがなかろうが、とにかく社会はそれを未だ受け入れていない。それを声高らかに主張することは、勇気のいることであるし、その後の自分の立場を考えれば色々と覚悟を要する行為でもある。一方の否定派の主張にはそうした冒険はないし、一見、社会が共通の認識として持っている意見を述べているようにも思える。そのことを充分知っている彼らは、自信満々で相手を小馬鹿にしながら語っているけれど、実はそれも社会の認識ではない。社会は否定することをも選択していないのである。だが、『未確認事項である』という、慎重だが積極的とは言えない立場は、否定する立場に近いという錯覚を与えやすい。肯定派の主張する仮説も、否定派の主張する意見も、ともに一つの仮説であるにすぎないが、否定しておけばとりあえず人に馬鹿にされることはないという面が強い。

 あまりにも何事も簡単に信じてしまうような、夢見がちで現実逃避型のタイプは、確かに肯定派に多いと思う。中には自己の利益のために意図的に人をたぶらかそうとしている輩も存在している。しかし、必ずしもそういう人ばかりではない。あまりにもこじつけに聞こえる否定派の説明よりも、ずっと自然で科学的に思える主張も少なくはない。何も材料の出ていない段階で、どうしてそこまで頑なに否定をし、相手を馬鹿にし、茶化し、自分を優位に立たせようとしたがるのか、私は理解に苦しむ。相手の人格を否定するような事まで言うあの精神性はどこから生まれてくるものなのか。『科学的』、『論理的』と高らかに宣言する彼らの主張が、こと相手の人格を断ずる段となると、極めて偏見に満ちた非論理的なものと成り下がることに本人達はまるで気付いていない様子である。自分の信ずるところを主張し、押しつけ、自分と意見の違う相手を馬鹿にする行為は確かに私もやったことがある。だが、それは昔の話だ。はたして、世界的な権威でもある、一流大学の教授や、類い希なる才能を多く持った知性溢れるタレント(褒め過ぎかな)が、いい歳をしていつまでも示し続けるべき態度であろうか。彼らは世間の人々に嫌われたがっているのかとも疑ってしまう。論理的なつもりでいる人は、とかく相手を論破することに喜びを見いだす事が多い。相手を言い負かすことで、自分の知的優位を確認したがっているのかとも思える。

 人は自分の精神を相手に投影してものを考えてしまうものだ。相手の考え方が自分と根本的に違うのだということを想像だにしない人達が少なからずいる。むしろ、圧倒的多数がそういった罠に陥っていると言ってもいいかも知れない。『下種の勘繰り』という言葉がある。『蟹は甲羅に似せて穴を掘る』ということわざもある。彼らが下種だと言ってるわけではない(全く言うつもりがないかといえば嘘になるかも知れないが)。ただ、彼らの発言は自ずと自己の内面を暴露していると言いたいのである。良い、悪いということではなく、それが彼らの精神性の現れだと言うだけである。

 科学者の地道な努力は私などからすれば想像を絶するものだ。大槻教授は火の玉研究を始めたときにはほとんど誰にも相手にもされず、なにくそという気持ちで必死に頑張ったというような話を聞いたことがある(気がする)。松尾貴史氏は随分と器用な人であり、様々な分野の知識も豊富で、意識的にかなりの勉強をしているようでもある。そうした彼らのキャリアからすると、地道な努力をともなう徹底的な検証も行っていないような曖昧な根拠をもとに、世間に対してものを言い、彼らの経験上明らかに違う角度から説明の付く(と信じている)事柄を、いかにも不思議な事だとして騒いでいる連中は、皆インチキであり、浅はかであり、許せない輩なのであろう。

 だが、どうにもそれは単純に過ぎる発想である。私などから見れば、人間の多様性というものをあまりにも無視した見方としか思えない。オカルトに関することを本にし、テレビに出て、有名になり、金を稼ぐ。彼らの発想の中ではそれは全て金儲け、売名を動機とした行為であるとしか捉えられないようだが、それこそが彼らの精神そのものなのである。彼らが無理矢理に否定しようとすることでも、その存在の可能性が高く、それを知ることが世の中のためになると冷静に判断し、馬鹿にされることを覚悟して世に出ていく人達もいるのである。影響力を持つためには多くの本を売り、テレビにも出て主張もし、なおかつ活動を維持するためには現実問題として収入を得る必要もあるのだ。それが的はずれであったり、道を外れて狂信的な方向へ行ったりという危険性は否定できないが、その人の活動が全てペテンであり、金儲けのためであり、馬鹿な故であるという発想はあまりにも精神が貧しい。もちろん、ろくでもない輩は多いかも知れない。盲信に思えて、とてもではないが自分には受け入れられないという話も数多くある。だが、純粋に真実を伝えたい、世の中を良くしたい、苦しんでいる人を助けたいという気持ちで活動している人達も大勢いることは確かなのである。

 だが、大槻教授や松尾貴史氏のようなタイプの人々の中にはそういう観念を理解できる土壌がないようだ。他人に対して役立とうという概念が全く欠けているようにも見える。自分の持っている概念だけによって全てを判断しようとしている結果なのだろうと思う。どうして、そうした純粋な精神の存在を理解できないのか。あまりにも、自分のことで頭がいっぱいなのかも知れない。成長過程で愛情をあまり受けてこなかったのかも知れない。人に騙されたり裏切られたりという経験が多かったのかも知れない。そんなことから、いつの間にか性悪説的な立場をとる人間になったのかも知れない。

 カルトなど危険から社会を守らなければならないのだ、とよく彼らは主張するが、なにも全てを否定する必要はない。彼らの必死な姿を見ていると、どこかに強い不安感を感じる。自分を保つために、常に自分より下の人間を用意しておきたいというような強い動機を感じる。自殺したiちゃん(「不幸について 〜その4〜」参照)に通じるものを感じる。どうにも楽しくない人生だろうなと哀れを感じもする(こんな事を言われれば、「冗談じゃない、よけいなお世話だ」と怒るだろうが)。

 しかし、彼らのような存在は実は肯定派にはとても強い味方となる可能性がある。あれほど頑なに否定を続ける彼らが、どうにも否定できないような証拠を突きつけられて、肯定せざるを得ないような立場に立たされたとすれば、世間に対するアピール度はとても大きい。何でもかんでも肯定してきた人が言う言葉に比べ、その価値はとても重いのである。もしかしたら、彼らは来るべき変革の時代のために用意されている駒なのかも知れない。

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