パラビオシス
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批判すること

 批判する立場というのはとても簡単なものだといつも思う。相手の立場に身を置いていない者が、ここぞとばかりに辛辣な攻撃を加える様をいつも不快に思う。それでは、同じ経験をした者ならば相手を批判する“権利”があるのかと問われれば、同じ経験などあり得ないと答えたい。同じ時、同じ場所で、同じ境遇に見舞われた者同士は同じ経験をしているのではないかと考えている方々があるかも知れないが、それは同じ外的状況に身を置いていたに過ぎないのであって、受け止める側の人間が違っていれば、それはそれぞれが独自の経験をしているとしか言えない。

 人間は何かを『批判する“権利”』を持っているのだろうか。相手に対していかに残酷な言葉を浴びせようとも、あるいは他人を殺そうとも、人間が行動する可能性として全てが選択できるという意味で、人は何事に対しても“自由”であると言える。

 ここで言った“自由”とは、この宇宙の法則が我々の行動を許容しているという意味である。それは、ある行為は罪であり、罰せられ、またある行為は祝福される、とかいったいわば宗教的な考え方とは別のことであって、要するに、『可能である=許容されている』という単純な話である。物理法則にしろなんにしろ、この宇宙を満たしている法則が許容していないことは、我々には行動不可能である、というだけのことを言っている。そうした意味での“自由”は、“権利”という言葉に置き換えることができるだろうか。

 “権利”という言葉を用いるとき、その言葉には、
「人はその権利を行使したことによって罰せられることがない」
 という意味が含まれている。

 法的、あるいは倫理的な意味での『批判する“権利”』については、ここではどうでもいい。法的な、あるいは社会的倫理観・価値観による後ろ盾がなければ、行為者の社会的自由は制限を受けるかも知れないが、それはまた別の問題である。それぞれの国の、それぞれの地域のしきたりによって、批判する対象ごとにその許容範囲は定められているだろうが、そういった意味での“権利”については、「そういう取り決めである」と受け止め、それに従うか従わないかの選択をする、というだけの話でしかない。

 ここでは、もっと大きな意味での、形而上的というか、哲学的というか、宇宙的というか、普遍的、絶対的な意味での“権利”というものについて話をしようとしている。

 多くの宗教家は、たとえば殺人などの行為は、その行動自体は可能だけれど、それは罪であり、死後罰せられるものだといったことを説く。宇宙には刑法が存在しているといったような言い方だ。一方、無神論者や唯物主義者は、死後の生や、転生による因果応報といった概念を受け入れない立場から、人間の行動はこの世界での社会の取り決めによって罰せられ、あるいは許容されなければならないと信じる。その中には、この3次元世界における人間社会という限られた中において普遍的倫理が存在すると考えている人がいるかも知れないが、私からするとそれはとてもあり得ないことのように思える。形而下的なこの世における倫理とは、何をどうしたところで相対的なものに過ぎないだろうとしか私には思えない。いずれにしても、私にとっては、この両者の見方をそのまま受け入れるには抵抗がある。

 私が感じている結論を述べれば、何事も罪ではないし、罰せられるべきこともない、ということに尽きる。私は無神論者ではないし、唯物主義者でもない。永遠の生というものを信じているが、だからといって見えない世界での刑法の存在を信じてはいない。複数の生に関わる因果応報というものを信じてはいるが、それは罪が贖われるとか、善行が報われるとか、そういった話ではないと思っている。それは物理法則における作用・反作用の法則と同じようなことだろうと思っている。だから、実際上、他人を傷つけたといった行為の反作用がなんらかの形で自らに返ってくることはあるだろうが、それはあの世の裁判官や陪審員が判決を下した結果ではないと信じている。作用があって反作用があるという、あるいは衝撃を加えれば波紋が拡がっていくといったような、極く単純な力が働いているのだと信じる。その結果は複雑に絡み合って、原因を突き止めることなど不可能ではあっても、全ては単純な法則に従った結果だろうと思っている。

 結局、批判をしたければいくらでもしても構わないし、宇宙はそれを規制しないだろうということである。宇宙的に見て、人間はやりたいことをやる権利を与えられていると言ってよい。と、私は結論づけている。ただし、ほんとうに“やりたければ”だ。その行為が何を自分と世界にもたらすのか、それを考たうえで、あるいは後のことは無視したうえで、どうしてもやらないわけにいかないのなら、宇宙はそれを許可するはずである。ただし、もちろん社会的には制裁を受けるかも知れない。

 事件や事故の被害者が、その犯人や当事者ばかりか、警察や救助関係者、あるいは司法関係者などを怒りにまかせて激しく非難する様子を目にすることがある。正直なところ、「言い過ぎだろう」と不快に思うことも少なくない。報道の中では、被害者のそうした言動を逆に批判的に捉えることはタブーとされているのか、そうした言動をとやかく言う場面はまず一切ないけれど、なんとなくみんなの頭の上に“?”が浮かんでいるような空気を感じることもある。

 被害者である立場、弱者である立場なら、最大限の『批判する権利』を与えられていると思い込んでしまうらしい人々がいる。どこの誰に対しても、どれほどの汚い言葉で批判しても、誰からも文句を言われる筋合いはないと信じ込んでしまうらしい人々がいる。

「なぜなら、私はこれだけひどい目にあったのだから」

 確かにそんな立場の人に対しては、かわいそうだから度が過ぎても大目に見てやろう、という空気が周りにあることは確かだろうが、そのことを除けば、彼らはその言動についてなんら特別な位置に置かれているというわけでもない。

 これは、被害者に対する補償の問題とは別の話である。いままで、事件被害者の精神的・肉体的・経済的・社会的などさまざまな損害に対して十分な補償がされてこなかったという反省が強くなってきているようである。マスコミの取り上げ方もその点で適切でなかったという反省が強いらしい。それが、被害者に対しては“批判しない”というマスコミの態度に表れているのかも知れない。

 ジャーナリズムは弱い立場の人達には直接的な批判は控えるけれど、国家や力をもった企業などに対しては堂々と批判をする、という面がある。その方が民衆の受けがいいという計算もあるだろうし、それをやっている側としては気持ちがいいという部分もあるだろう。単純に気骨ある態度を示したいという見栄かも知れない。動機はそんなに単純でも純粋でもないはずだと思う。だが、それらは『ジャーナリズムの正義』という名の下に行なわれている。そして、全ての動機はその正義感に基づいていると、おそらくほとんどのジャーナリストは主張するだろうし、自らがそう信じ込んでいることが多いだろうと思う。

 批判する自由が保証されていない国家は健全ではない、といったような言葉を耳にすることがある。批判することがジャーナリズムの主たる役割である、といったようなことを豪語するジャーナリストを見かける。確かにそういう面はあるに違いない。国家や力ある組織は、民衆の監視にさらされなければ、暗躍し、暴走する傾向がある。悪い方向へ転がりがちなそうした組織に対して、それに歯止めをかける役割は確かに果たしていると思う。だが、「何でも言って構わない立場である」と思い込む事件被害者らと同様、『ジャーナリズムの正義』という後ろ盾を持っていると信じ込んでしまった彼らの言葉には、度を過ぎた醜さが見受けられることも少なくはない。

 ジャーナリズムに限らず、批判することは正義であると信じているらしい人々がいる。だが、罪も罰もないのと同様、絶対的な正義なんてものもこの宇宙には存在していないだろうと私は思っている。やはりそれも相対的な価値観に過ぎないと思っている。

 突き詰めていけば、何が正義かなんてことはすぐに分からなくなる。それでもなお、どこかの国の大統領のように、正義という言葉を乱用する人は、結局のところどこかで線を引き、細かいところには目をつぶり、矛盾点は無視して突き進むしかない。そこらじゅうに妥協点を用意しない限り、“正義”なんて言葉は本当のところ使えるものではない。

 批判は一種の攻撃である。相手を許容しない立場を貫くことである。憎しみや怒りや不快感を相手にぶつけることである。極言すれば、言葉や態度による暴力である。決して美しいものではない。

「しかし、それがなんだと言うのか。自分や愛する者が苦しめられ、傷つけられ、殺されたときに、相手を批判するぐらいがなんだと言うのか。人を殺すことの惨さに比べたら、批判することなどどれほど可愛らしいことかわからない」

 そんなことを言われたら、もちろんその通りだと答える。批判が抑止力になることもあるし、相手を改心させるきっかけになることもある。別に否定はしない。刑事裁判などは批判することで成り立っている。有用なことも少なくないかも知れないし、好きなだけ批判をしてかまわない。しかし、やはり美しいものではない。

 大方の批判は極めて一方的なものである。自分とは信条や思想が違うということで相手を批判するのは、自分の立場こそ正しいとして、相手を認めないことである。批判は癖になる。自分勝手な思いこみを増長させる。批判を繰り返している人は、己を省みなくなる。全ての責任を外部に転化する傾向を強くする。批判は、感情をたかぶらせ、憎しみを強化する働きをする。批判は非難、中傷に発展し、ついては暴力につながる。

 明らかな“悪”に対しては、批判し、糾弾することが必要なのではないかという声があるに違いない。批判しか問題解決の道がないならそれも頷けるが、そうとは思えない。批判は必ずしも必要ではない。批判は暴力の種である。

 たとえ正当な意見に聞こえようとも、批判を繰り返す人間を魅力的と感じるだろうか。『正当な批判』なるものが存在しうるとして、『正当な批判』が飛び交う社会は幸福な社会だと思えるだろうか。

 批判をしないということは、判断力を捨てるということでは全くない。むしろより深く徹底的に考え、感じ尽くすことである。相手を批判すれば、人はそこで思考を止めてしまう。批判は、相手に非を被せることで、結論としてしまうことである。それ以降の思考を放棄する、短絡的な決着だと言える。

 宇宙は批判も暴力も許容するが、決してそれを望んではいないし目指してもいない。と、私は信じる。

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