パラビオシス
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ヒゲのOL

 テレパシーなどというものは想像の世界の産物だと思っている人がまだまだ世の中には多くいるのかも知れないが、私からするとそうした考え方を想像することのほうが難しい。そもそもの性質のせいか、そうしたいわゆるオカルト的なことはなんでも信じてしまう父親の影響か、とにかく小さい頃からいろんな事を当たり前のように信じてきた。しかし、歳をとるにつれて考え方が随分と慎重になったから、さすがに最近はなんでも信じるということはなくなってきていて、昔なら闇雲に信じていたことでも、これといった判断材料がない限りは、よく分からないこととして放っておくだけの冷静さが身に付いたようである。ところがテレパシーについては別で、根拠となるようなこれといった出来事があったわけでもないのに、ただとにかく信じてきた。強いて言うなら小学生の時に見た正夢が唯一の拠り所だったと言えなくもない。

 小学3、4年生の頃、私はミクロマンが大好きで随分とコレクションしていた。知らない人のために説明しておくと、ミクロマンというのは体長10センチほどのプラスチック製の人形で、さまざまなデザインと色とでおそらく20種類以上のタイプが販売されていたと思う。モデルは白人男性で、名前もブラッキーだのボビーだのマイケルだのと日本人の白人コンプレックスをそのまま形にしたようなおもちゃである。言うなれば男の子用のリカちゃん人形であった。だが、設定としては彼らはリカちゃんのような普通の人間ではない。ちっちゃいサイボーグかなんかであって、これはスケールモデルではなくて原寸大モデルなのだ。

 さて、ある日、退屈していた兄と私はミクロマンを使った宝探しゲームをやることにした。どうしてそんなことをする気になったのかはわからないが、とにかく最初で最後のミクロマン探しゲームが始まった。まず兄がミクロマン達を家のあちこちに隠す。そして全てを隠し終えたところで私が探し始めるのである。最初はスムーズに見つけていったのだが、だんだんと探し出すペースが落ちていき、最後のひとつというところで行き詰まってしまった。何十分もかけて探し回ったが結局見つからなかった。ついに私は降参して兄に最後の1人、マックスの所在を尋ねた。ところが、驚いたことに兄はこう答えた。

「どこに隠したか忘れちゃった」

 いい若い者がほんの小一時間前のことを忘れるなど私には信じられなかったが、いくら訊いても本当に思い出せないのだという。当時、ミクロマンは私の宝だった。こんなことで無くしてしまっては悔しくて仕方がないし、マックス自身もうかばれない。私は兄を非難しつつ共に探し始めた。しかし、さんざん探し回ったものの結局その日はマックスの姿を見つけ出すことができなかった。そして翌日以降も兄は何も思い出すことができず、なんの手がかりもないままに時間だけが過ぎていった。

 1週間ほどがたったある日、私ははっきりとした夢を見た。夢の中で私は自分の家にいた。私はいつも廊下に掛けられている、おもちゃをしまうためのビニール袋の中に手をつっこみ、その底のほうからある物を取り出した。それはまぎれもなく行方不明の黄色いミクロマン、マックスだった。私はついに見つけたぞと夢の中で大喜びをしていた。

 目を覚ました私は一目散にそのおもちゃ袋のところへとんで行き、袋の底を探った。あった。本当にマックスはその袋の中にいたのだ。これが正夢というものなのかと感動したことをよく覚えている。

 私はマックスを隠していないし、兄が隠していた場面を見てもいないから、この夢は決して私の記憶を呼び起こしたものではない。もし、この夢を見たのが私ではなく兄であったなら、それは顕在意識から遠ざけられた記憶が呼び覚まされたに過ぎない出来事だと片づけることもできただろう。だが、夢を見たのはあくまでも私だ。

 これはテレパシーの証拠になるだろうか。兄の潜在意識に仕舞われた記憶にどうにかして私の心が接触し、それを夢に見たのだという可能性は誰も否定できない。あるいは、袋の中にあったマックスの何かが私の意識を刺激したのかも知れない。真実は、そうした未知の力が働いた結果なのかも知れない。だが、それは誰にも分からないのだ。日本を代表する否定派のO教授であったらこう言うだろう。

「そーんなのは単なる偶然ですよ。あなたの頭の中には、あの袋の中が怪しいっていう気持ちがずっとあったんだ。要するに客観的に判断して一番可能性の高そうなところを夢に見て、それがうまいこと当たったっていうだけのことですよ。そーれをテレパシーだとか神のお告げだなんて言って騒いでるなんてのはホントに馬鹿々々しい」

 全くそのとおりかも知れない。この正夢の場合、そんな意見に対しては全くなんの反論もできないだろう。だから、この体験を根拠にテレパシーを肯定する気は私にはない。だが、私は今はっきりとテレパシーを肯定する。少なくとも私の中ではそれは絶対的なものである。それだけの根拠になりうる新たな体験を最近持ったからだ。

 ’99年の暮れに父が亡くなり、私は仙台の実家に帰っていた。ちょうど間もなく年末年始休暇に入る時期でもあったので、職場のほうは残りの何日間かを休ませてもらい、そのまま正月まで実家にいることにした。葬式が終わると、妻は慌てて出てきた留守宅の雑用を済ますために一旦埼玉へ戻って行った。

 その日、私は母の買い物に付き合って街へ出ていた。駐車場に車を停めて目的の店まで歩いて行く途中、横断歩道を渡っている最中に突然ある言葉が浮かんだ。

『ヒゲのOL』

 なんの脈絡もなく、その言葉が私の頭の中にひらめいたのである。私は戸惑った。どうしてそんな言葉が唐突に浮かんできたのか全く見当がつかなかった。辺りを見回してみたが、『ヒゲのOL』と書かれた看板もポスターもなにも見あたらなかった。それにしても『ヒゲのOL』とは素頓狂すぎる。私はヒゲを生やしたOLの顔を想像して一人ニヤついていた。

 翌日、妻が再び仙台へやって来た。そして、彼女が鞄から取り出した荷物の中に私は驚くべき物を発見した。それは「しりあがり寿」氏の手による漫画、『ヒゲのOL 藪内笹子』だった。聞けば妻は前日の昼頃にその漫画を買ったのだという。それは私の頭に『ヒゲのOL』という言葉が浮かんだまさに同じ頃だったのである。私はそれまでその漫画の存在を全く知らなかった。しりあがり寿氏のことは知っており、氏の他の漫画も若干は読んだことがあったが、『ヒゲのOL』については見たことがなく、また誰かから話を聞いたことも一切なかった。

 私はこれをテレパシーの絶対的な事例だと思う。これをもって私の中ではテレパシーは確実に存在するものとして結論を下された。これはデジャヴではない。漫画の存在を知った後に「そういえばそんな言葉が浮かんだ気がする」と思ったなどという曖昧なレベルではないのだ。私は事前に『ヒゲのOL』という言葉を感じ、確実に意識し、吟味し、頭の中で反芻し、そして笑った。そしてその後、『ヒゲのOL』は私の前に姿を現したのだ。私が思い浮かべたのは『マクドナルド』でも『タモリ』でもなく、普段一度として耳にしたことのない言葉、『ヒゲのOL』なのである。これはたまたま思い浮かべるには難しすぎる言葉だと思う。そして、私の頭に『ヒゲのOL』という言葉が浮かんだ瞬間、それはまさに妻が『ヒゲのOL』を手にしたその時だったに違いないと私は思っている。だがそれを確かめる術はない。いずれにしてもそのタイミングは数時間と離れていないことは確実なのである。これらのことは偶然で片づけるには無理がありすぎるように思える。もし否定派の人々に反論する余地が残されているとするならば、それは私が作り話をしていると指摘することだけだろう。もちろんこれは作り話ではない。私はそう言うだけである。だが、私が嘘を言っていないと証明することはできない。だから、これはテレパシーが社会的に認められるための証拠とは成り得ないのである。私の中においてのみ、絶対的な証拠なのだ。

 テレパシーは存在するのだとムキになって世の中に主張するつもりはない。私が何を言おうと、否定派がどんなに優勢に論を進めようと、そんなことは何も関係がない。何かが9割9分9厘確実なように思えるということが真実を決めるわけではない。我々の意見がなんであろうと、真実はそこに存在しているのだ。

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