パラビオシス
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平和について

 テーマがでかいし、まだ自分がなにを書きたいのかイメージが無いけれど、ちょっと書いてみる。

 歳をとったせいなのか、最近の世界情勢のせいなのか、地球の平和は遠い、とつくづく感じてしまう。私は基本的に楽観主義者なので、きっとこれからはどんどん平和が近づいてくるに違いないという甘い思いを抱いてもいた。もちろんそんなに簡単じゃないだろうが、情報化が進めば世界の相互理解が一気に加速して、意外と早くに世界は穏やかな方向へと変化して行くのではなかろうかと。

 しかし、最近の世界は平和から遠のいてばかりのように感じる。世界各地でテロは起こるし、戦争、紛争も相変わらずだ。日本社会も悪くなっているように見える。昨今の治安の悪化は嘆かわしいものがある。事件の質も明らかに変わってきている。

「昔は良かった」

 という言葉は、信用ならない言葉だと思っていた。昔は良かったなんて言うけれど、長いスパンで見ると、確実に人類は進歩しており、現在が一番良いに決まっているのだ。科学や技術やシステムの問題だけでなく、人間性、すなわち精神面においても人間は緩やかに進歩してきていると思う。千年前に比べればもちろん、少なくとも二百年前に比べれば、差別主義者や極端な利己主義者の割合は確実に減っているだろう。比率が減っているのに加え、世界の総体的な意識が、思いやりのある人間性へと、ある程度底上げされてきているのだろうとも思う。第二次世界大戦以降の人類は、もっと成長して、二度とあの当時の攻撃的で覇権主義的な態度による大規模な争いを起こさない程度には賢くなったのだろう、と思っていた。

 が、そうでもない。それは全くの思い違いか錯覚だったかのようだ。私が単純な子供だったからか、身の回りがたまたま平和だったからか、世の中は随分と穏やかだと感じて育ってきたけれど、現在、世界を眺めてみれば穏やかどころの話ではない。短いスパンで見てみれば、確かに、

「昔は良かった」

 という言葉が正しい気がする。一時的に人類は、少なくとも日本は、平和へ近づく素振りを見せていたように感じる。その頃を昔とするならば、確かに昔は良かった。

 だが、結局それもたまたまの落ち着きに過ぎなかったのだろう。経済的に満たされているうちには、人々の不平不満も表出しない。己の欲望の生々しさを他人に向かって剥き出しにする必要がない。所詮は条件によるのだ。奪う必要がなく、譲り合う余裕があるからこそ、表面的には平和だったに過ぎない。経済が悪化すれば、犯罪が増加する。その傾向に変わりはない。

 つまり、人類の精神は根本的に進歩していない。僅かに、大昔では持ち得なかった概念を身に付けた人々がいるには違いないが、ほとんどの人々の精神には微々たる変化しかない。環境やシステムが人々の行動を抑制させ、あたかも愛情や誠実さを身に付けたかのように振る舞わせるけれど、多くの場合は自己保全のためのポーズに過ぎないようにさえ思える。環境が悪化し、そのポーズが目先の役に立たないとなれば、行動の質もまた悪化する。それは人々の精神に確固たる柱が無く、社会の状況に応じて漂い生きているからに他ならない。結局、大多数の人々の精神は平和へ向かうための進歩をほとんど成し遂げていない。少なくとも、私にはそうとしか思えない。

 平和とは、『戦争のない世界』というだけではまったく充分ではない。日本国内に現在戦争はないが、戦争に備えた体制は整えているし、戦争の支援は行っている。もし、世界中から戦争と軍隊がなくなったとしても、それだけで世界が平和になったとはおそらく言えない。犯罪があり、差別があり、喧嘩があり、苛めがあり、不平等があり、嫉みがあり、恨みがあり、蔑みがあり、裏切りがあり、嘘があれば、その社会は平和ではない。しかし、戦争がなくなるということは、実は限りなく平和に近いことなのかも知れない。人間の利己主義、家族主義、民族主義、国家主義、そして他者、他集団、他民族、他国家に対する疑心暗鬼、蔑み、憎しみが戦争を生み出すのであれば、戦争を無くすためには、それら人間の悪意、弱さ、歪みが克服されなければならないはずだからだ。ゆえに、『戦争のない世界』ではなく、厳密には、『戦争の起こり得ない世界』こそが『平和な世界』と同義なのだろうと思う。

 端的に言えば、平和は自分からだ。己の精神が平和でなければ社会の平和を実感できない。だが、自己の精神を平和に保つなんてことは、ほとんどの人には今のところ大変に難しいことだ。平和でない精神は、身の回りの人達と摩擦を起こす。平和に過ごしたいという願いを抱きながらも、一時の感情や利害で動いてしまうのが普通の人間であり、家族や友人、同僚や上司や部下たちとさえ平和な日々を維持し続けられないのが我々である。近くの人間と平和に過ごせないならば、見知らぬ他人とはなおさら平和には過ごせまい。ましてや、異国の人間に対しては平和に過ごそうという意識さえも薄れてしまうのである。世界平和が遠いのも当然だろう。

 だがそれでも、とりあえず大きな戦争だけはやめよう、という意見は分からないでもない。喧嘩はしても、殺し合いまでは我慢できるだろうと。だが、やっぱり我慢できないのだ。力ある者の喧嘩は殺し合いなのだ。喧嘩をしようという精神がなくならない限り、やはり戦争はなくならないだろうと思う。
「若いうちはどんどん喧嘩をすればいい。泣かされたまま帰ってくるな、というのが我が家の教育方針です」
 なんて方がいらっしゃる。はっきり言って、私としては賛成できかねる。喧嘩にも質があると思う。あまりにも理不尽で、意地悪で、我がままであるような相手に対して、喧嘩も辞さずに立ち向かって行くということはあって当然だと思うが(なかなか出来るものではないけれど)、それが暴力を伴ってくると色々ややこしくなる。原則的には暴力を肯定していては人類の進歩はないと思う。青春ドラマでは若者が徹底的に殴り合った後に、
「ワハハハ」
 と笑い合って、強い友情で結ばれる、なんて話が溢れているが、実際には美しい喧嘩は少ない。ほとんどはエゴのぶつかり合いだ。忍耐力の欠如による暴力の応酬だ。穏やかな人々にとっては、暴力そのものが胸の悪くなるものだが、実のところはその暴力の元になっている精神こそが醜い。その精神を感じ取ることが最もいたたまれないのである。喧嘩してこいという親御さんたちは、そうした醜い精神を喜んで育成しているように思う。

 ホリエモンが出馬をした。はっきり言って、私は彼の人間性に好感を持てない。落ちてくれてありがたいと思ったが、驚くべき事に、
「世界平和に興味がある」
 なんてことを言っていた。目が点になった。チャンチャラおかしい。ホリエモンの経営の精神は平和の精神とはかけ離れているように思える。平和の精神のないところに世界平和はない。システムとして、利害として世界平和を実現させるアイディアを持っている、とでも言い出すのかも知れないが、そんなものは長続きするものではない。もしも戦争がなくなったとしても、外交という政治的なやり取りの中で非暴力的な喧嘩が行われ続け、国民同士、民族同士が反感を持ち合っているのだとすれば、やはりいずれ世界は戦争を始める危険性が高い。根本を正さずに結果だけを抑えようという試みが不毛なのだ。

 ついでに書かせてもらうが、ライブドアが日本語版を扱っているEudoraというメールソフトがある。そのマック版を以前買ったけれど、HTMLメールがまともに表示されることがない。表示に異常な時間がかかる上にフォーマットが崩れまくっている。何年も前に苦情を送っても全く直す気配がない。他の不具合とあわせて問い合わせのメールを送った時、3週間返事がなかった。その間3度ほどメールをしたが、メールのチェック漏れだったとかで、複数の窓口からそれぞれに同じような返事が来た。全くサポート体制が整っていないのだ。おまけにEudoraは、そんな不具合を抱えたままバージョンアップをして、また有料で販売している。こうした不具合があるということさえ一切表記していない。こんな不誠実なことがあるだろうか。これほどの不良品ソフトは他にはなかなか見あたらない。ライブドアという会社の能力、会社の姿勢を私はこれで見限った。

 仕事とは本来、自分たちが社会に対して貢献できるもの、利益になるものを提供して、その見返りとして報酬を受けるべきものだ。持ちつ持たれつで、お互いが満足を得るというのが基本的な精神のはずである。他人の作った会社を買収し、仕事の内容にはなんの愛情も持たず、ただそれが利益を生み出すかどうかという視点だけで経営を行っていたら、程度の低い腑抜けた仕事しかできない会社になってしまうのだ。会社をでかくする事ばかり考えて、足下の実業には全く力を注がないような、そんな不誠実で浮ついた人間が世界平和をどう実現しようというのか。仕事と同じで、世界平和なんぞ、それぞれの人間が地道にコツコツ進歩した結果としてしか得られるものではないのだ。一足飛びに世界平和だけを求めようとしたところで、そんな平和は束の間の幻想にしか過ぎない。

 革命家が夢見ているように、手っ取り早く政治やシステムを変えようという試みは確かに大きな成果をもたらすかも知れない。うまくすれば、北朝鮮と日本の違いぐらいには変えられるのだろうが、だが、おそらくそこ止まりだ。日本は60年間戦争をしてこなかった。今後もしないと言っているが、我々の精神の質は、もう二度と戦争をしないという約束に根拠を与えない。世界には多くの人間がいる。現在の政治家が全て戦争をしないという決意を抱いたとしても、入れ替わった者がそれに与しなければ方針は変えられる可能性がある。将来においてはどこの誰が国を動かす力を持つようになるのかはわからない。結局、人類の全てが戦争を起こし得ない強固な精神を持たない限り、戦争が過去の遺物と化すことはないに違いない。

 平和の精神がどういったものか、それを得るためにはどうすればいいのか、ということは難しいので銘々が考えるとして(無責任)、世界平和はまず自分から、身の回りの世界から、ということだけでもとりあえず肝に銘じて生きてかなければいけない。政治家を責める前にまずは自分の足下を見る事だ。他人になんとかしろという前に、自分自身に出来る事を確実になんとかしなくてはいけない。

 そんな事を言ったって、悪い奴はいっぱいいるし、自分の事を棚に上げて他人を責める奴もいっぱいいる。平和なんてお構いなしという輩がごまんといるからには、結局希望がないじゃないかと言われるかも知れない。そういう人々をどうにかするのはひとまず別の話だ。とりあえず、経済状況が変わっても、社会の風潮が変わっても、だからといって生き方を変えるようなことのない精神、打算に向かわない精神、利己主義に走らない精神を少なくとも自分だけは目指すことだ。そういう人々が絶対的に増えて行けば、身の回りの小さな平和が徐々に拡大していって、多少なりとも世の中は平和に近づいて行くはずなのだ。そうなれば、戦争の消滅も早まるかも知れないし、曲がりなりにも戦争がなくなれば、相乗効果で、また身近な平和も増すかも知れない。

 長い目で見ながらも、しかし確実に進歩して行かなければ、いつまでたってもこの星は変わらない。変わらないどころか、手遅れになるかも知れないのだ。慌てず急いで確実に、己から変えて行くのだ。それ以外に道はない。
The The』のマット・ジョンソンも歌っている。

「世界を変えられないなら自分自身を変えるがいい」

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