パラビオシス
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自分は正しいと頑張るほどに、
行き着くところは一人の世界

 この表題の言葉は、妻が絶大な信頼を寄せる旧くからの友人が、近所のお寺で見た標語だそうである。その彼女曰く、

「自分が正しいなんて思うほど傲慢なことはないと思って、気をつけなきゃと思った言葉だったので覚えちゃったんだよね」

 なんと謙虚で真っ当な考えの持ち主だろう。妻は良い友人を持った。

 いやはや、残念なことが起こるものだ。何年ぶりになるのかわからないが(調べたら4年にもなるとすぐわかった)、ここに文章を書くきっかけは、いつも残念な思いをした後だったり、腹の立つ思いをした後だったりするのが大方のパターンで、今回のそれはもう脱力感、無力感の極みだと言える。

 はあ〜・・・。

 心底ため息が出る。途方に暮れるとはまさにこういうことを言うんだろう。

 私は古代中国を舞台にした歴史小説なんかが好きでよく読むのだが(宮城谷昌光先生とか)、まず主要なテーマになるのが賢帝と愚帝のコントラストだろう。古代の昔からさんざん言われ続けてきたことだが、裸の王様になったら終わり、奢れるものは久しからず、身の周りに気持ちのいいことだけを言ってくれる側近のみを置いて、諫言をする臣下を遠ざけるばかりか、殺してさえしまうような愚帝が、国を不幸にし、ついには滅ぼしてしまう、そうした歴史がわんさか出てくる。

 一方の賢帝はといえば、もちろん側近には優れた頭脳と人格を持った臣下を配し、耳の痛い諫言をも真摯に受け止める度量と謙虚さを持つ。常に己の至らなさを自覚し、反省し、自らの内面を磨き成長させていく。そうして民のために考え、国を治める。

 もちろん、これは別に皇帝や王様ばかりに当てはまる話じゃない。それは本来、すべての人が肝に銘じるべき教訓だろう。

 大変残念なことながら、私の身近に裸の王様になってしまった人がいる。いや、その言い方は少し違うかもしれない。その人は裸の王様になってしまったわけではなく、生まれつき、あるいは幼少期から裸の王様的性質を持っていた人なんだろうと思う。だが、その性質は以前にはさほど目立ったものではなかった。行動として極端には現れていなかったから。それが中年を迎えて顕在化してきた。年々、その人の傲慢さ、自惚れ、唯我独尊の度合いは高まっている。その人が今最大の攻撃目標にしているのが、私と妻だ。とりわけ妻に対する批判が激しい(もはや憎悪なのだろうと私は見ているが)。以前は従順だった私が、いつの間にかその人を批判するように変わってしまったのは、このとんでもない妻のせいだと頑なに信じている様子である(まあ、その人の問題点に気づくきっかけを与えてくれたのが妻だったので、全くの間違いではないが)。

 その人は悪人ではない(重大な問題点を抱えてはいるが)。悪人どころか、自分は天使だとか、人を幸せにしたいと心底願っているとか、何かと言えば吹聴しているほどだ。それは口先だけのことではなくて、当人が本心から思っていることだ(正しくは、自分に思い込ませていることだ、と言いたい)。ところが、周りではトラブルが起きる。別に事件になったり、怒鳴り合いになったり(心の中じゃ怒鳴り合ってるだろうが)、裁判沙汰になったりという話ではない。具体的になにか大きな迷惑をかけているかというと、まあ、いろいろ人を傷つけてきたことは確かだが、たいしたことがないと言えばたいしたことはなく、その人に対して強いしこりを残している人達が何人かいる、というぐらいの話だった。

 が、ついに大きなことを起こした。周囲には大きな迷惑と心配としこりとストレスとやるせなさと経済的負担とその他もろもろを与えたが(今でも与え中)、その人は、自分のブログの中で、

「結局、誰も不幸になっていない」

 と言い放ち、

「私の幸せのグレードが上がっている」

 とうそぶいた。

 確かに不幸とは人それぞれの捉え方次第だから、気持ちの持ち方さえうまく変えれば誰も不幸にならずに済むのかも知れないが、しかし、その人の起こしたことで大迷惑を被っていると思い、心配や不安を抱え込んだと自覚している人達が実在しているにもかかわらず、そうした人達の気持ちも理解できずに、「誰も不幸になっていない」などと自分の尺度を押しつけて決めつける、その無神経さ、身勝手さに私は呆れかえってしまう。そうした私の気持ちをその人にぶつけてみても、返ってくる反応は、「見方が間違っている」、「悪意を持って見ているからそんな風にしか思えないのだ」、「最初から否定することを目的に話をする人には何を言っても無駄」といったもので、全く耳を傾けようとしない。あげく、その後何度にもわたって、ブログにおいて私や妻の批判を繰り広げる。それも全く的外れで言いがかり的な決めつけを前提とした内容だから、こちらはまた深いため息をつくばかりだ。

 はあ〜・・・。

 今や私は悪魔に精神を乗っ取られた救われない人間になってしまったと思われていそうだし、私を堕落させた元凶は我が妻だとその人は完璧に思い込んでいる様子だ。でも、実のところその人こそが天使の皮を被った悪魔なんじゃなかろうかとさえ私は最近思うようになってきている(天使の姿をした、じゃなくて、天使の皮を被った姿、ってのは、実はかなりおぞましい外見だとは思うが)。

 そもそも私とその人の関係は良好だった。私はその人の話を素直に聞く人間だったし、自分の持っている考え方もその人と一致していたから、話をするときにはその共通性を確認して満足し合っていたものだ。しかし、考え方が一致するのは当然で、お互い同じような本を読んで感化されていたのだし、今でも基本的な筋でそれらの思想が間違いだとは思っていない(一般論としては立派なことを言うのだが、それが自分にまったく当てはまっていないのに、自分は完璧にその通りの人間だと思い込んでいるところが問題)。当時は私も子供だったし、その人は年長なので、話をするときにはどうしても師弟に似た関係になっていた。その人は完全に自分が私を指導していると思っていただろうし、私もそういう態度で話を聞いていたのは確かだ。

 しかし、いつまでも子供ではない。大学生活を経て社会にも出て、いくらか大人に近づいていけば、自分なりに独自の視点でものを見ようとしてくるものだ。物理的にその人との距離が離れたこともあり、私は自分の欲求に従って、そうした思想を掘り下げ、拡げていこうとした(どういう思想かと言えば、読者には概ね察しがついているかもしれないが、グルジェフであるとか、クリシュナムルティであるとか、あるいはいわゆるトンデモ系と分類されるようなものも含めて)。

 私にとっては、その時点では掘り下げることよりも拡げていくことの方が大切だった。身近にみんなを苦しめる問題上司がいたり、精神的に苦しんで最後は自殺してしまった同僚がいたり、突然難病を抱えるようになった友人たちがいたり(それらの話はこのHPのあちらこちらで書いた通りだ)、その他いろいろ悩み苦しんでいる人と接する機会もあって、私はそういう問題が身の周りに起こることの意味やら、そういう問題と対峙しなければならない人達の境遇をどう理解したものか、あるいは、それらをどう解決していったらいいものかということを考えるようになった(特になんの解決も見ていない状況ではあるのだが)。

 最初は、それまで自分が持っていた思想(今でも『その人』が頑なに持ち続けてる思想だが)に沿って考えようとした。それは一言で言えばカルマの法則だ(ここでついて来たくなくなってしまう人がいるかも知れないとは思うが、話の流れ上必要なものなので、ちょっとお付き合いを願いたい)。因果応報、単純に言えば過去世の行いが現世に反作用として反映されるというような考え方だろう。実際にはそんな単純なものではないと思うし、はっきり言って私などには詳しいことはわからない。そもそも事実かどうかなんて証明のしようがないわけだが、それでも何か納得の行きやすい考え方だなという思いはあって、この世の幸不幸が全て偶然によるものだなんて考え方に比べれば、とても人生に希望が持ちやすい思想だと思う。だから、詳しいことはわからないにしても、なにかしらそういうことがあるだろうという考えは私の中では基本的にはしっかり根を下ろしている。

 ところが、このカルマの法則というものをまるでよくわかっていないくせに、いや、よくわからないが故に、あまりにも単純化した形で絶対視している人達が沢山いる(私も若い頃にはそういうところがあった)。たとえば以前にYoutubeで見たものだが、かつての素人外国人参加討論番組において、とある国の男性が、こんなことを言っているシーンがある。

「ブスに生まれたってことは、前世で罪深いことをしてきたからそうなったんだよ! だから、諦めるしかないんだよ!」

 表現は若干違ってるかも知れないが、意味的には完全にこういうことを言い切っていた。こういう考え方は、とても単純で、とらえ方によっては前向きな作用をもたらす場合もあるかも知れないが、ほとんどの場合には害にしかならないと思う。つまりは、差別意識を助長するということだ。

「不幸なのは、前世の行いが悪いから。つまり、魂のレベルが低いから」

 そういう見方をすると、犯罪者が刑に服するのは自業自得である、というのと同じように、苦しい境遇の人にも何もしなくていい、といった根拠を与える。

 事故に遭うのはカルマのせいだ、犯罪に巻き込まれるのは前世の行いの報いだ、体に障害を負うのは魂のレベルが低いからだ、などという理由付けをすることによって、そうした境遇にある人達を見下す。逆に言えば、健康で幸せである自分はそうしたカルマを負っていない、レベルの高い人間である、という優越感を得る。

「あなたはダメな精神だから不幸なのだ」

 そう言われた人はどう感じるだろうか。自分は低い魂なのだと、ただでさえ楽しくない気分のところにそうした落第生のようなレッテルを貼られることがどれほどやるせないものか、こうした考え方に染まった人達は考えたことがあるだろうか。万が一それが真実だとしても、物事にはやり方、言い方というものがある。相手のことを本当に思いやり、少しでも楽になる手伝いをしたい、という真心から出た言動であれば、相手に劣等感を植え付け、ましてや自分の優越感を満たすような方法をとれるはずがない。

 だが、その人が、まさにそういうことをやっている人だということに私と妻は気づいた。口ではみんなを幸せにしたいと言いながら(そういう気持ちを持っていることは否定しないが)、自己の優位を確認したいということがその人にとってより重要なことなのではないか、と、どうしても感じてしまうのだ(当人にその自覚がないからやっかいなのだが)。

 その人は、自分の『レベル』が高いと信じていて、すなわち、レベルが低い証拠である、言い換えれば、悪いカルマを背負っている証拠である『不幸』というものが自分には決して訪れないのだ、と思い込んでいる。

「だから、私の家族は幸せでなければならない」

 と、その人は言った。

「こういう生き方をすれば幸せになれると示すことによって、世の中の人達がそこへ向かって生き方を変えるように導きたい」

 と、そんなようなことを常々言っていた。

 だが、どうもその人の言うところの『幸せ』というものが、なにか目に見える形に囚われているように私には感じられた。必ずしも物質的な豊かさにこだわっているわけではないにしても、物事に深刻にならず、家族の中で波風を立たせずに、とにかく気楽に楽しく暮らすこと。

「人生、笑い飛ばしちゃおう」

 というのがその人のモットーのようだが、どんなことでも気楽に前向きに考えれば不幸ではないというそのスタンスの単純さに(私も以前は基本的にそう考えてはいたが)、もはや私はついていけない。人生にはそれだけでは済まされない様々な状況や局面があるのだということが、単純な私にもいいかげんわかってきたからだ。

 なにかと悶々と悩みながらも、特に大した問題を抱えていない人間に対してなら、

「気楽にしなさい。なるようになるのだから」

 と言ってもよいかも知れないとは思う。考え方の悪い癖で、無駄と思える心労や劣等感などを抱えて生きている人達もいるだろうから。だが、大きな病気や重いトラウマを抱えてしまったような人達、あるいは争いの絶えないむごたらしい社会の中で生きているような人々に対して、彼らほどの困難を背負ってもいない自分などが、

「気楽に考えれば、うまくいくよ」

 などと言うことは(たとえそれが最終的に真実であるとしても)、とてもじゃないがおこがましくて出来ることではない。そういう困難な立場にいる人達は、それぞれが自分の置かれた状況の中で自分なりの努力や葛藤を通して問題を解決しようとしているのであって、そうした立場にないばかりか、相手の精神的な辛さや不安を感じ取ることもできない類の人間に、簡単になにかを言ってもらいたくなどないに違いない、と思うのだ。

 その人はもう随分前に、

「気楽に、前向きに考えること。(神を)信じて任せること。そうすれば全てうまく行くし、幸せになれる」

 という考えに至った。それはそれでいい。間違いとは言えないと思う。究極的には正しいと言えるかも知れない。だが、やはり事はそんなに単純ではない。

 そもそも、平穏無事で楽しい生活が幸せであって、厄災に見舞われることが不幸であるということをそんなに絶対視していいものかどうか、私は甚だ疑問である。たとえば、鬱病とはとてつもなく辛い病気だと聞くが、その人はそれを間違った生き方の結果だと見る。辛いなら幸せではないし、正しくないと。だから、そういう間違いからはなるべく早く抜け出さなければならないと言う。間違いを犯しているならば、すなわちそれは生き方における劣等生である、といった(そういう表現はしていないが)見方をする。確かにそう言える部分もあるかも知れない。そこから抜け出るためには精神の処理の仕方、生き方を変えることが必要だろう。だが、間違いや悪であることから抜け出せばそれでよいのだろうか。その人の考え方ではイエスだ。

「正しい生き方、正しい考え方をして早くそんな辛いところから抜け出して幸せになりましょう、幸せになれるんですよ」

 と(上から)言うだろう。だが、そんなことを言ったところで、相手からは、

「そんな簡単に言うな。それが出来たらこんなに苦しんでいるものか」

 と思われるだけの話で、要するに世の人々の抱える問題はそんなに単純で簡単なものではない。そうした人々がいかにもがいてそこから抜け出そうとしているか、その人にはまるで感じることができないようだ。

「そんなんじゃダメだ。考え方がネガティブだからそうなるんだ。もっと明るく希望を持って生きればいいんだよ。私は本当にあなたの幸せを思って言っているのに」

 その人は、そうたたみかける。相手が自分の考えを受け入れないのは、後ろ向きの考え方に囚われているからだ、と言う。その視点は常に自分の価値観の上に置かれている。

「私ならできるのに。ダメな人だ」

 そういう思いが言動から伝わってくるのだが、その人にはむろん自覚がない。相手のために一生懸命にアドバイスをしているのだとしか思っていない。もし相手が反発してこようものなら、わかってもいないくせに、と批判を強める。自分こそが相手の本当の苦しみをわかっていないのにもかかわらず、だ。

 私が最近、とみに思うことは、困難な状況、鬱々とした精神といったような、決して楽ではない状態にあってしか見えてこないものが必ずあるはずであって、むしろそうした状況の中で経験し、感じ、気づいたことが後々の大きな糧となるはずだということである。つまりはそれこそが人生の重大事であって、幸せを追い求めるあまりに、そうした経験を『悪』として軽視し、排除しようとするのは、果たして本当に正しいことなのだろうか? 私は、それでは人生に対する理解は浅く、片手落ちだろうと思う。

 精神性の低さを証明するものだと信じているが故にその人が忌み嫌い、切り捨てている『不幸』という状況(それもその人の単純な類型化によるものに過ぎないが)にこそ、掘り下げれば大切な宝が眠っていて、それを手に入れるためには時間もかかるし、苦しい思いもしなければならないのではないか。決して精神の高い低いの問題ではないと思う。

 私には、病気を抱えて困難な人生を送っている友人たちより、彼らを下に見ているその人の精神性が高いとは容易に思えないのだ。お互い長所短所があり、もし総合点をつけられるのだとすればどちらかに軍配が上がるのかも知れないが、少なくとも友人達には我々健常者にはあり得ない体験を通した精神的な成長や洞察があり、そのことについて我々はなにも言えることはない。そもそも人の精神的レベルなどというものが総合点で優劣をつけられるものだろうか? 甚だ怪しく、弊害を伴うそうした単純な考え方は、極力排除すべきだと私は思うようになった。少なくとも、誰かを傷つけてはいないか、充分な配慮を払うべきではないかと思う。

 だが、その人はそんな意見を入れてはくれない。なんといったって、自分は絶対に正しいという『自信』があるから。

「このままじゃ、『教祖様』になるよ」

 と、私は何年も前にその人に対して手紙で書いた。あくまでも上の立場で、下の人達を引き上げてやろうという態度が明らかだったからだ。もちろん、私も、精神的に高い位置にいる聖人のような存在が人々を導くことはあって当然だし、有り難いことだと思っているが、そうした本当に優れた人々は決して自分を崇めさせようとはしないし、人々に敬われたからといって、そんなことで己の自尊心を肥大させたりしない。むしろ、人格が高まれば高まるほど謙虚になっていくのが真の姿なのだ。まさに、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」なのである。しかし、いわゆる『教祖様』として否定的に描かれる存在は、自分が最も高い、最も正しい、そして自分だけが全て正しい、と自我を増長させていく。その過程には、

「自分は間違ってはいけない。正しくなければならない」

 といった、教祖としての義務感やプライドから生じたものもあるかも知れない。最初から詐欺的な商売として宗教を利用しようとする輩は別として、いかにいかがわしい宗教の教祖様といえども、出発点には、

「人々を救いたい」

 という思いが多かれ少なかれ存在しただろうと思う(的外れかどうかはともかく)。だが、それが、

「私が人々を救いたい」

 となり、

「私しか人々を救えない」

 になって、『私しか』の比重がどんどん膨らんでいく結果、自分より正しい人間はいなくなり、誰も自分に意見をする資格は持たないことになり、そして自尊心は膨張し続けて傲慢になっていく。

 私はそれと同じように傲慢になっていったその人に、何度も何度も「謙虚になれ」と言った。「自分だけが正しいと思うな」と言った。しかし、その人はやはり耳を傾けなかった。

「私は傲慢ではない」

 と言い切って、己を見つめ直してみることもしなかった。真に謙虚な人ならば、

「これだけ何度も指摘されるならば、自分では気づいていない増長した部分があるのかもしれない」

 と、まずは自己を省みるはずだ。その人はそうした態度をほんのわずかでも見せることをせず、私のことを、

「自信を持っている人のことを傲慢な人だと見誤っている」

 と断じた。私はもはや笑うしかない。自信と謙虚さは同居できるものだ。自信を持ちながら傲慢に見えるということは、やはりその人には傲慢さが存在するということだ。その人こそ、自分の傲慢さを自信だと見誤っている(あるいは、己にそう思い込ませている)と言わざるを得ない。

 世の中に、傲慢さを持たない人などそうそう存在するはずはない。一人として存在しないかも知れない。その度合いが大きいか小さいかの違いはあれども、傲慢さはどこかに存在し、いつでも頭をもたげようとする。自信が大きくなったとき、他人と自分を比較して、己の優位に満足感を得たとしたら、その人の傲慢さは増大している。自信とは己自身の中で成長し、完結できるものだと思う。他人との比較の中でしか自信を保てなくなったとすれば、それはもはや本当の自信ではなく、優越感であり、差別意識であり、傲慢さであろうと思う。

「自分には傲慢さが無く、あるのは自信だけだ」

 と言い切ることのできる人は、己のありのままの姿を見ることが出来ない人だ。そうした言葉を吐くこと自体が傲慢であると私は思う。

 その人が私や妻からの苦言に耳を貸さないのは、その人にとって我々は下のレベルにいる『わかっていない』人間だからに他ならない。我々夫婦に限らず、その人にとって身の周りの人達、あるいは世界中の人々は自分より低いところにいる人のようである。我々はその人に指導されるべき位置にいる人間であって、その人が我々から汲み取るべきものはなにもないのである。その人は、

「そんな風に思っていない」

 と否定するが、それは本人からすれば嘘ではないだろう。その人には自覚がないのだ。しかしながら、端から見ていると、そうした気持ちが様々な場面ではっきりした言動として表れている。

 かつてその人は、我々夫婦を『近いレベル』と認識していたが(近くても、むろん下)、我々がその人の問題点を指摘してからというもの、『はるか下のレベルの分かっていない人達』に格下げされた。自分が我々のことを見誤っていたのだといういいわけをつけて、我々からの苦言を無力化させることに成功した(その人自身と、一部の身近にいる人達の中においてだけのことではあるが)。我々がその人に反抗的であるのは、成長したと自惚れて、増長し、傲慢になった結果、その人の下にいることに我慢ができなくなったからであり、その苦言の中身はまるで真実ではないただの言いがかりである、と、その人の中では結論が出ている。であるから、その人には何を言ってももはや何も届かないのだ。

 その人には理想の自分像がある。みんなを幸せにできる自分。その象徴としての本当に幸せな自分。自分の生き方が正しければ、目に見える形で幸せな現実が訪れる。どこの誰から見ても明らかな、文句のつけようのない幸せを体現している自分。自分はそうあらねばならないと思っている。そして、その人は既にそうした自分になっているのだと確信している。幸せである現実が自分の『高さ』、『正しさ』を証明しているのだ、と信じている。

 だからこそ、その人は不幸になってはいけない。自分が不幸になれば、自分の正しさが揺らいでしまう。結局のところ、その人は常に不安にさいなまれているのだと思う。弱いのだ。理想の自分を現実の自分だと思い込んで、その姿を維持することに必死になっている。自分が幸せであること、正しいこと、それを守るためにはどんな支離滅裂な論理もまかり通ってしまうし、誰の目にも明らかな欠点さえもその人自身の目には映らない。挙げ句の果てにその欠点はそれを指摘した人のものであると言い、自分が言われた言葉とそっくりそのままの表現で相手に投影するのである。本人には自分が言われた事実などは一切記憶にもないようであり、さも自分が最初に気づいたかのように、相手(大抵は我々夫婦)にとってはまるで的外れな欠点の指摘を意気揚々と繰り広げる。もはやその人にまともな論理は通じないし、周囲の誠実な思いも汲み取ってはくれない。受け取るのは自分を褒めそやす言葉ばかりであり、それ以外の声はガラクタとして見向きもされない。

 その人は、何かと言えば、

「自分は幸せだ」

 と吹聴する。いかに自分が人より優れているかを自慢する。自分の伴侶のダメなところを、わざわざ人の集まっているところで、本人を前にして何度も繰り返し指摘する。そして、私がそばについてないと必ず何か災難に巻き込まれるとか、さも自分には特別な能力があるかのようなことを言う。伴侶はいつも立つ瀬がない顔をして黙っているしかない。相手の立場をまるで考えない無神経さと自己顕示欲。子供は大抵みんな私になつくとか、動物が自分だけにはなつくとか、妙な自慢をしたがる。そして、自分になつかないものは、みなどこかがおかしいとかネガティブだからということにされる。

 かつて、その人は我々夫婦にこんなことを書いてきたことがある。

「あなたたちが本当に幸せだというのなら、誰に対してもはっきりとわかるように証明してみせなさい」

 どうやらその人の頭の中では、貧乏(私ごときが貧乏だと言えば、本当に困窮している方々に申し訳がたたないのだが)で子供もいないことが不幸の明らかな証拠として燦然と輝いていたようだ。

 もちろん我々はポカンとするしかなかった。なんとなれば、自分たちのことを不幸だなどと考えたこともなく、そのことをわざわざ誰かに証明しなきゃならないなどという発想はそれこそこれっぽっちも持っていなかったからだ。

「なんで証明しなきゃなんないんだ?」

 我々は理解に苦しんだ。

 果たして、幸せとはそんなに大声で誰かに宣伝しなければならないものだろうか。幸せなんて特に改めて感じるものでもなく、ただ時たまポヤ〜ンとしながら、

「ああ、そういや幸せなのかなあ」

 と、まったり感じるぐらいのもので充分ではないかと私は思う。ましてや、誰かにそれを証明する必要などあるはずもない。幸せなんて、ごく個人的で内面的なものなのだから。

 その人が「幸せ! 幸せ!」とまるで『幸せ教』の教祖でもあるかのように大きな声で叫び回っている姿を見るにつけ、

「ああ、この人は本当に不安なのだな」

 と感じざるを得ない。幸せであることを必死になって確認し、周りの人にそう認めてもらうことで安心感を得ようとしているようにしか思えないのだ。だが、その努力はいつか破綻するだろうと思う。それは真実ではないからだ。自分が幸せであると確認しようとしていること自体が、心の平安を得ていない証ではないか。自己欺瞞はいつまでも続けられるものではなかろう。

 このままでは、その人はいつかいろいろな意味でぶっ壊れてしまうかもしれないし、周囲の人々にも大きな負担を与えるに違いない、と確信した我々夫婦は、なんとかそれをわかってもらおうと何年か努力したけれど、言えば言うほど我々は低いところへ貶められ、その人に悪意をもっていることにされてしまった。もう無理かとあきらめかけながらも、いや、まだチャンスはある、と思い直してはちょくちょく働きかけたけれど、時間が経つほどにその人と我々を分かつ壁は強固になっていった。

 もはや我々はあきらめた。今はもうぶっ壊れるならぶっ壊れても仕方ないと思っている。そういうきつい経験を通してしかその人が変わる道は残されていないのかもしれない。それも完全に目を覚ますにはもう手遅れだろうとは思いながらも、少しでも多くのことに気づいてから人生を終えてくれるように祈っている。

 その人は、自分が幸せでなければ他人を幸せにしようという余裕は生まれないから、まずは自分の幸せを一番に考えてよい、と言った。そのことについては特に否定しない。そういうスタンスでも充分だろうと思う。だが、本当の偉人はそうではない。本当に他人の幸せばかりを考えて生きている人は、己の幸せなどには無頓着だ。誰かの助けになること自体に喜びを感じる。その喜びが幸せというものなのかどうかなどということには無関心であるに違いない。ましてや、

「まずは自分が幸せというものを示さないと」

 などとは考えもしないだろう。自分がどんな逆境にあっても、自分のことは二の次にして、他の人のことを心配したり、どうにか助けになりたいと思える人は極めて少ないだろうけれども存在するのだ。実のところ、相手を思うのに自分の幸せは関係がない。それは、ただ内面からあふれ出す止めようのない衝動なのだ。

 もちろん、その人も私も聖人ではない。己の幸せを第一に考えて悪いことなどないと思う。ただ、自分はそういう人間だと認めればいいのだ。

「自分の幸せを示すことで人を幸せに向かわせよう」

 などといったお為ごかしを言わずに、自分はまだ聖人のようにはなれないなあ、と素直に言えばいい。誰かに諫言されたら、それを真摯に受け止めて自分を見つめ直せばいい。その上で自分は間違ってなかった、とか、確かにその通りだから気をつけなきゃいけないなあ、と判断すればいいだけのことではないか。理想の自分と現実の自分とをきっちり区別をして、理想へ向かって進もうとすればいいのだ。自分は間違っていない、と頑なにプライドを固持しようとするから、事実をねじ曲げ、自己欺瞞を繰り返さなければならなくなる。自分にはもはや正すべき所がないなどと思い込んでしまった時からその人の退化は始まり、傲慢さと自尊心ばかりがバケモノのように肥大していくだろう。

 ありのままの自分を知り、それを認めることが傲慢さを遠ざける道だ。

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