パラビオシス
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不幸について 〜その5〜

 不幸は精神の状態だと書いた。若くして亡くなってしまった3人を「不幸だ」と言う人達はいるだろうが、早く亡くなること自体は『不幸』に直接結びつく要因ではない。この国では、人が亡くなることを『不幸』という言葉で表現するけれど、必ずしも言葉どおりに受けとめる必要もない。亡くなった当人からすれば、自分が死にゆく時に「不幸だ」と感じているとは、全く限ったものではないのだ。もちろん、「死にたくない、死にたくない」と思いながら亡くなる人もいるだろうが、満足しながら亡くなる人も意外と少なくはないと思う。

 “その2”から“その4”にかけて3人の死を眺めてみて、私の個人的な願望からか、随分と綺麗事でまとめているきらいがあるが、実のところはとんでもない話で、彼らは皆、自分の短い人生を恨み、己の不幸を呪いながら死んでいったという可能性も当然ながら否定はできない。そうであるなら、彼らは確かに不幸であったろうし、彼らが不幸だったという見方を受け入れた我々も、幸福な心地ではなかなかいられない。

 “死”自体を不幸と捉えるのは、やはり捉え方一つの問題であって、それは死に行く当人にしても、それを見守る周りの者についても同様である。捉え方一つで“死”が不幸でなくなるならば、不幸でない捉え方をすることが賢い選択だといえないだろうか。だがもし、誰がなんと言おうとも“死”は絶対的に不幸なことだとするならば、どう考えればよいのか。絶対的に不幸だろうがなんだろうが、“死”を避けることはできない。とするならば、やはり嘘でもいいから、「不幸ではない」と思いながら死んでいった方が良さそうなものである。結局、そんな絶対性には関係なく、不幸を不幸と思わずにいることができるなら、その不幸は既に不幸ではない。すなわち、やはり不幸は精神の状態だと言えるのである。

 もちろん、“死”ばかりが不幸とされるわけではない。災害や病気に見舞われるなど、不可抗力とも思えるような出来事に遭遇している場合、簡単にそれを考え方だけで処理できる人は多くないだろう。不幸と思わないようにしようと言ったところで、先行きのことを考えてみたり、周囲の人々のちょっとした態度に接しただけで、なにかと憂鬱な気分に陥るのが我々である。そうなれば、前向きに気持ちを切り替えるきっかけを見いだすことだけでも困難なものだ。楽しくない気分に常に浸っていれば、それは不幸な状態かも知れない。すくなくとも、幸福な状態とは言えないだろう。

 不幸と受け止めるかどうかと言う前に、どうして彼らの身にはそうした状況が訪れるのだろうか。人生は単なる偶然の積み重ねであり、彼らの境遇もたまたまそうなっただけのことだと考えることは、随分と気分を萎えさせる。おまけに人生は一度きりであると言われれば、一度きりの人生にどうしてこれ程の差別が用意されているのか、彼らにしてみれば納得できないに違いない。人生は一度きりしかないという証拠はない。人生が一度きりではないという証拠もない。少なくとも、万人が納得するだけの証拠は今の世の中には提示されていない。だから、『人生は一度きりであり、全ての出来事は偶然である』という考えを多くの人が受け入れていても何も不思議はない。そんな考え方で彼らの人生を生きることを想像してみる。

 森田と堀内は、遺伝的な要因か、あるいはなにか環境的に影響を受けるような場所にたまたま身を置いたために、病気を発してしまった。また、O君は何か悪い偶然が重なって、事故によって不自由な体になった。たまたま、家庭が普通の家であったから、自分が働かなくとも一生安穏と暮らしていけるという状況でもなさそうである。生活は極めて煩わしい。普通の人が特に意識しないでできることでも、彼らには多大な労力と時間が必要である。おまけに、コミュニケーションや行動に支障があると、周りの人間はだんだんとおっくうになってくるのか、なんとなく彼らと距離を置くようになる。中には露骨に接触を避ける人間もいるし、堂々とその旨を表明する輩さえいる。逆に人の優しさを強く感じることもあるが、嫌な思いをする事の方が多いし、そうした体験の衝撃は心に残りやすいものである。毎日嫌な思いをする事を考えれば、なかなか堂々と社会へ出ていこうという気にはなりにくい。今後の人生については、自分の選択がたまたまうまくいけば、幸せであるかも知れないし、うまく行かなければ何も改善しないかも知れない。そもそも、こうした体で生まれたことが不可抗力であるなら、これから先、正しい選択をすれば良い結果が得られるという考えは持てるはずもない。それは彼らの与り知らぬところであって、全てが偶然に委ねられているなら、ただ、成り行きを期待もせずに眺めている他はないのではなかろうか。

 若くして命を落とした岳雄、杉村、Iちゃん、それに文中で紹介はしていないが、かつて私が勤めていた会社(例によって、M澤さんやIちゃんのいた会社)の後輩であるK君らは、揃いもそろって真面目な連中だった。「あんないい人が何故?」と言われるような人達であるが、人生が偶然によって支配されているなら、当然、いい人であることなどは何も関係がないだろう。たまたま病気になり、事故に遭い、あるいは、たまたま持って生まれた性格と環境との組み合わせが災いして、人生を早く終えてしまった。一度きりの人生であれば、彼らは随分と損をしているようにも思う。本当にそれきりでお仕舞いであるなら、彼らの人生にどんな意味があったというのだろうか。

 人生になにも意味など無いのだとすれば、ただ面白いように生き、たまたま境遇の悪い立場に生まれたなら楽をしている連中に八つ当たりをして、自分の事だけ考えて一生を終えてやろうという考えを持つ人間がいることも理解できる。欲望を我慢してまで、愛や幸福を語って大人しく暮らしていくことに何の面白みがあるのか、どんな生き方をしても結局は何も変わりがないのだとすれば、我慢しているだけ損ではないか。欲しければ奪い、憎ければ殺すことがなぜいけないのか、そんな考え方があっても不思議ではない。

 多くの宗教には死後の生という考え方が用意されている。生まれ変わりというものとは別に、天国や地獄という、いわばご褒美場とお仕置き場の概念を植え付けることで、人々のそうした無秩序な生き方に対する歯止めの役割を果たしてきたとは言える。それが真実でないと言い切ることもできないけれど、どちらかと言えばそれは人々の生き方を統制するために意図的に考え出された便宜的な物語であろうと私は思う。ある程度の効果はあっただろうが、弊害も多い。むしろ、弊害の方が大きすぎたかも知れない。

 だが、ある人々は、信仰によって救われたと言う。信仰によって、苦しい状況や不幸な人生の意味を説明してもらい、その考え方の下で全てが楽になったという。信仰は基本的には盲目的なものだ。他人の言ったことを多くは鵜呑みにして、それに従って生きようという術である。自分が体験して感じた事から導いた結論ではなく、他人の言った事柄を、『己の判断』というフィルターを通さずにそのまま受け入れることである。優れた教祖が自分の体験として語ったことを、自分の体験としていない者を含んだ弟子達が、誤解や作為を交えて徐々に師の教義を歪めながら伝えてきたものが宗教のおおよその姿だろう。それを、さらに様々な理解の程度にある、聖職者、導師といった立場の人間が、自分なりの解釈を加えながら信徒たちに語って聞かせる。それがどれだけ信頼のおける行為なのか、どれだけの弊害のあることなのか、多少の想像力を働かせれば、疑問がわいてきそうなものである。

 人生を生きる上で、その後ろ盾となる考え方は、できることなら信仰に依らないでいたい。信仰に依らず、真実に依りたい。真実に依るならば、誰にでも受け入れられるから。だが、世の中の真実など、ほとんどなにも分からないというのが本当のところだ。結局、真実の分からない部分については、信仰に依るしかないではないか、という意見に遭遇しそうである。だが、そうでもない。真実が分からないからといって、信仰を持つ必要もない。言われなくとも、多くの人は、特に日本人のうちの多くの人は、信仰など持たずに生きていると言うかも知れない。だが、それは拠り所を持たない生き方だろう。私はそんな生き方も薦めない。拠り所は持った方がよいに違いない。だが、真実に依ることができないとき、信仰にも依らないとしたらどうして拠り所を持てばいいのか。それは、自分で拠り所を用意するのである。

 人生を生きる上で、常にもっとも大きな問題として我々の頭を悩ませ続けてきたのは、『我々は何のために生きているのか』という大疑問である。この問題を考えたことのない人はおそらくほとんどいないだろうと思う。これについては様々な考えや教えというものに接してきたが、自分なりにしっくり来そうな考え方を受け入れてみたりもしている。「それは信仰ではないのか?」との声も聞こえそうだが、状況によってその考えがしっくり来なくなれば、いつでもそれを捨て去る用意はあるから、盲目的な信仰とは違う。肝心な点は、それが自分に都合がいいかどうかだ。何のために生きているのか分からなければ、必死に誠実に生きようという意欲もわかないかも知れない。なにやら面倒な目に遭うのなら、都合の良い意味づけをして生きやすくすればいいのではなかろうか。

“全ては自分に責任がある。人生は一度きりではない。何事も必然的に起こるもので、偶然の産物などではない。身に起こった『不幸』についても、一度きりの人生ならば不公平に思えることも、数ある人生のうちの一つとして自分がその状況を望んで作り出しているのだとすれば、勇気も湧いてこよう。状況が厳しければ厳しいほど、それは自分に役立つことである。どんなに無駄に思える体験でも無益なことは一つもない。どんなに最悪な人間でも取り返しのつかないことはない。なにごとも、どうということはないし、全て貴重な体験である”

 そんな事を考えてみると、気楽にならないだろうか。それが真実かどうかは問題ではない。真実かどうかわからなければ、気楽でいられる考えを真実と決めてしまえばいい。真実はあらかじめ決まっていることばかりでもあるまい。気楽でいられるように勝手に決めた真実が、きっと、おおかたは本当の真実になるものだ。

 どうせ同じ時間生きて死んでいくなら、自分を沈み込ませる考えは捨てるに限る。それが全く真実に反していて、「あいつは一生馬鹿なことを信じて死んでいった」と言われても、幸せの中で生き続けたなら全くお得ではないか。そんな生き方をすれば状況もだんだんと好循環し始めるものだ。

 私も早いとこ、そういう循環にはまりたいのだけれども。

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