パラビオシス
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不幸について 〜その2〜

 岳雄(仮名)とは小学校1年生の時からの付き合いだった。詳しいところは分からないのだが、障害とは言わないまでも、岳雄にはなにか肉体的に健全でないような感じがあって、そのためか運動能力が他の生徒よりやや劣っていた。また低学年の頃は常にヘッドギアと歯の矯正器具をつけており、さらに鼻も悪いようで、蓄膿症というのか、常に鼻の穴は黄色い鼻汁で塞がれているような状態だった。最初は岳雄のそうした表面的な姿にのみ注意を奪われたのだと思うが、私に彼の存在を決定的に印象づけたのは、まだ入学して間もないある日の給食時間の出来事だった。

 後に市の給食センターから配送されるようになってからは比較的味も良くはなったものの、私が小学一年生の時は校内でおばさん達が給食を作っていて、それがどうにも不味かったという記憶がある。全国どこの小学校でも似たようなことが行われているようだが、特に低学年の場合、どんなに不味いものであっても給食を残すことを絶対に許さない教師がいる。掃除の時間になろうが、クラスのみんなが帰ってしまおうが、とにかく全てを食べ終わるまでは決して解放してくれない、トラウマ作りとでもいうようなひどい仕打ちを加えるのである。彼ら教師の言い分はいつも同じで、私は小さいときからその理屈に納得がいかなかった。曰く、

「世界には食べたくても食べられない、飢えた人達が沢山いるんだ。与えられた食事を残すなんて、その人達に申し訳ないと思わないか。だから、全部食べなさい」

 飢えた人達の横で食べ物を残して捨てたなら、それは申し訳ないかも知れない。だが、遠く離れた人々の食事を私が奪って食べているわけではない(大人になってみれば、世界における富や資源の分配がまったく偏っているということを知ったから、ある意味では彼らの食事を奪っているとも言える)。私が食事を残しても残さなくても、彼らの飢えには直接の影響はないではないか。むしろ、食べたくもないものを無理矢理に食べている行為の方が彼らの神経を逆なでするのではないか。べつに、必要以上に多くの食事を用意して、もう食べられないからいらない、と贅沢で言っているわけではないのだ。どうにも、まずくて気分が悪くなるから、体調をくずしそうだから、体が受け付けないから食べないのである。食べないと言うよりは、食べられないのだ。戦後の飢えの時代を経験した人達なら、食べられる幸せをかみしめて、よほど不味いものでも感謝の念を持って食べられるかも知れないが(飢えの経験の反動で食事に対する異常な執着を持って贅沢を極めていく人達も少なくないようだけれど)、我々のように高度経済成長時に育った世代にはそうしたことは難しい。ましてや好き嫌いの多い小児のことである。まずは、みんなが残したくなくなるような、せめて苦しまなくても食べられる程度の味付けを施すように努力することが先なのではないのか。と、小学1年生ながら私は思った(もちろんもっと漠然と感じていただけではあるが)。

 ちなみに、飢えている人々という話が出たのでついでに書いておくと、私が幼稚園児のころ、母が雑誌の写真記事を見せながら私に言った。

「ほら、見なさい。食べ物が食べられないとこんな風になっちゃうのよ。かわいそうね」

 そこには飢えてやせ細り、腹だけが極端に膨らんだアフリカの子供達の写真が掲載されていた。私は自分たちとはあまりにもかけ離れたその子供達の姿に驚愕した。そして、こう思ったのである。

「人間は、食べ物を食べないと真っ黒になるんだ!」

 黒人の存在を知らなかったのだから仕方がない。しばらくの間はそう信じ続けていた。これは余談。本筋に戻る。

 ある日の給食に、どうしても食べられないほど不味いおかずが出た。もちろん食べ切るまで私の給食時間は終わらない。最後まで残される苦痛を既に何度か経験していただけに、この時は途方に暮れて泣きたくなってしまった。残されたくはないし、かといって食べることもできそうにない。「どうしよう、どうしよう」とおろおろしているうちに、給食時間も終わりに近づいてきた。本当に涙が溢れそうになってきて、そのおかずを手に持ったまま、後ろに座っていた岳雄にむかって言った。

「ねえ、このおかず、食べられた?気持ち悪くて食べられないよ。どうしよう」

 別に私は岳雄に何かを期待していたわけではない。ただ困り果てて、誰かに気持ちを訴えたかっただけなのだと思う。岳雄の器の中はもう既に空だったが、彼もそのおかずのとてつもない不味さについては心底共感を示した。岳雄もやっとの思いでそれを食べきったところだったのだ。しかし、私の困り果てた姿を見た岳雄は、私の手から器を取り上げると、そのおかずを一気に自分の口の中へ掻き込んだ。目を強くつむり、思いきり不味そうな顔をしながらそれを喉の奥へと送り込んだのである。そして、「ハイ」と言って空になった器を返した。私は言い尽くせないほどの感謝の念を抱き、なんてすごい奴なんだ、と心から尊敬した。

 私は岳雄が好きだった。運動はできないし、勉強もあまりできないし、鼻はつまって真っ黄色だし、頭が大きくて不格好な体つきだったけれど、誰からもいじめられたり、からかわれたりすることがなかった。穏やかで、のんびりで、控えめで、明るく、ひょうきんだった。私にしてくれたことを恩に着せるようなことなど決してなく、また、怒ったり、いじけたり、誰かの悪口を言ったりという姿を見た記憶がない。今、彼の姿を思い出すと、たまらなく強い愛着を覚える。自然と心が和んでくる。

 岳雄とは小学校の6年間、ほとんどクラスを共にした。もしかしたら6年間全て同じクラスだったかも知れない。友達付き合いには波のようなものがあるから、その間ずっと親友だったというわけではない。頻繁に遊んだ時期もあるし、あまり一緒に過ごさなかった時期もある。彼と遊ぶときはいつも2人きりだった。彼の家でなんとなくのんびりと過ごすことが多かったと思う。彼はNゲージを持っていたので、それを眺めることもあったし、当時全くの出始めだった家庭用テレビゲーム機(極めて単純なテニスゲーム)に初めて触れたのは彼の家でだった。

 中学になるとクラスが別になり、岳雄とは話す機会も全くなくなってしまった。2年生になったとき、岳雄が陸上部のユニフォームを着て放課後のグラウンドに立っている姿を見かけて、なんの間違いだろうかと思った。岳雄と陸上部というのがあまりにも異質な組み合わせだったからである。岳雄の運動能力の低さと言えばおよそ運動部には不向きなレベルで、実際、小学校時代から運動クラブなどには一切関わってこなかったはずなのである。それが今になって何が起こったのだろうと私は不思議でならなかったが、そのいきさつについては後に知ることになった。

 中学2年生の夏休み、思わぬニュースが飛び込んできた。岳雄のお父さんは山登りが好きなようで、それで岳雄にも山にちなんだ名を付けたのだと思われるのだが、夏休みを利用して父子2人で北海道の大雪山系を縦走する旅に出た。お父さんにとっては息子と2人きりで登山することは、息子の成長を見、また、日常とは違った状況で親子の絆を確認する意味でもとても楽しみなことであったろうし、岳雄にとっても有意義な体験であったろう。だが、その旅はあらぬ方向へと進んでしまった。

 夏休みの部活で学校へ行ったときに友達から聞いたのが最初だったと思う。岳雄とお父さんが山で行方不明になっている。場所は北海道の大雪山系トムラウシ岳だという。山へ登った話など小学校時代には岳雄から一度も聞いたことがなかったから、まず彼が山へ行っているということ自体が意外だった。もしかしたら、本格的に山へ登ったのはこれが最初だったのかも知れない。おそらく随分楽しみにしていたに違いないと想像した。

 その後、テレビや新聞には随分注意していたのだが、数日経っても2人の行方は分からなかった。学校では友達同士で「まだ、見つからないな」とか「やっぱりもう駄目かな」などと話していた。前年の夏休みには、私と同じクラスの女の子が海水浴場で事故死してしまう出来事があったから、今年もまたそんなことが起きたのかと、皆がざわついた様子だった。

 結局、行方が分からなくなってから一週間近くが経って、2人は遺体で発見された。以下はその時の新聞記事の内容である。

 岳雄君も遺体で発見
   大雪遭難 父の近く、力尽きて

 【旭川】大雪山系を縦走中に遭難した仙台市○○、○○大医学部助教授 齋藤正一さん(鬼山注:仮名)(四八)と二男岳雄(たけお)君(一三)=仙台市D中二年=の親子は、十日夕、トムラウシ山山頂付近の沢で父親の正一さんが遺体となって発見されたのに続き十一日朝、岳雄君も父親が死んでいた同じ沢で遺体となって見つかり、父子遭難という悪い結果となった。

 岳雄君の遺体が見つかったのは、十日夕、正一さんの見つかった同山山頂付近の沢地帯で、正一さんの遺体から約二百メートル北東に下ったガレ場であお向けになって死んでいるのを十一日午前七時五分、捜索隊が見つけた。岳雄君はひざを曲げた形で死んでいた。顔に打撲傷があるが、着衣に乱れはなく、疲労して死んだ状態だったという。

 道警ヘリコプターぎんれい号は二人の遺体を収容、午前十時十五分、トムラウシ山山頂付近の北沼を出発、同十時二十八分、旧上トムラウシ小学校のグラウンドに到着した。ここで検視を行ったところ、父親の正一さんはロッ骨が数本折れており、足を滑らせ転落、岩にぶつかったらしい。二男の岳雄君は外傷がなく、父親が転落したのを見て助けようとしたが力尽き、そのまま死亡したとみられる。二人とも死後一週間ぐらい経過していた。

 正一さんの妻恵美子さん(鬼山注:仮名)は、十日夜新得町に来たが、十一日午前九時半ごろ、新得署で岳雄君の遺体発見の悲報を聞いて声もなく立ちすくんだ。そして直ちに旧上トムラウシ小学校に向かい、二人の遺体と涙の対面をした。

 その後の詳しい情報は特に知らないので、この記事に書かれていることが全て確定した事実だとは言えないのだが、もし、この見解が正しいのだとすれば、私が不思議に思うのは、岳雄が遭難してから死んでしまうまでの時間があまりにも短いということである。発見される一週間前に死んでいたのだとすれば、それは二人が行方不明になった時期と変わらない。力尽きて死んだとはいうが、それほど短時間のうちに亡くなるというのは、どういうことなのだろうか。動物は、肉体的には死ぬ原因がなにもなくとも、絶望だけで死ぬことがあるというから、まさに岳雄はそんな状態だったのかも知れない。彼は一人きりで不安と恐怖におびえた夜を過ごしたのだろうか。恐ろしさに押しつぶされてしまったのだろうか。彼を死に至らしめたのは、まさに彼自身の精神だったのではないかと思う。だが、それは恐怖や絶望だけではなかったのではないか。強い弱いではなく、彼が他の選択、精神的な選択の方向を変えていたなら、少なくとも彼一人の命が助かる道はまだあったに違いないと思う。だが、彼はその道を選ばなかった。彼は、短いながらもこの一生での全てをやり尽くしたのだと感じていたのではないだろうか。いつも調子の悪い肉体を背負って、ずいぶんがんばったんだと意外に満足していたのではないかと思う。父親を一人で死なせることに対して同情を寄せていたのかも知れない。もしも残されるのが母親ひとりだったとすれば、結果も変わっていたのかも知れない。がんばり屋の彼のことだから、必死に生きる道を捜したに違いないと思う。だが、残された家庭には彼の兄がいる。きっと母親の支えになるだろう。彼は父親に付いて行くことも悪くない選択だと思っていたのではないだろうか。

 後日、中学校の弁論大会で岳雄について語った生徒がいた。陸上部に所属しているその生徒の口から、岳雄が陸上部に入ったいきさつを聞くことができた。岳雄はこう言ったそうである。

「僕は自分の足が遅いのを知っている。でも、自分なりにどこまで速くなれるのか、試してみたいんだ」

 やはり彼は満足して人生を終えたんだろうと思った。

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