パラビオシス
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不幸について 〜その1〜

 こういう問題についてある特定の人物の言動を引き合いに出して書く場合、題材にされた本人はショックを受けるか、少なくとも面白くない気持ちを持つには違いない。場合によっては私との関係が悪くなるか、気まずい雰囲気になるぐらいのことはあるかも知れない。だが、別に批判をするために書くわけではないし、私の気持ちとしては問題が前向きに進んでいくようにいくらかの力になればよいと思っていることは確かだと思う。だが、自分がボランティアのようなことを喜んでする質でないことはよく分かっているから、身の回りの人々に対する、あるいは未知なる不特定多数の悩める人々に対してのそうした思いが、私の中にある本当の愛情や友情というところから出てきているのかは我ながら甚だ疑問ではある。

 人の役に立つということによって自分自身が満足感を得たいという欲求を感じる。己の満足感ということ以外には特に欲するところは見あたらないので、“概ね無償の愛”ぐらいには該当するのかも知れない。不幸である人々の精神が不幸でなくなることのへの助力ができれば、私は最大限に満足するのだと思う。

 『不幸』は精神の状態である。状況が同じでも、受け止め方が違えば、ある人には不幸であっても他の人にとっては喜びでさえあるかも知れない。もちろん大方の人々にとって、不幸な事としてしかとらえられない状況というものが存在することは間違いがない。しかし、外的な要因がどんなに困難であっても、それに関わらず内的に平和であることは決して不可能ではない。ただし、多くの人々にとっては簡単でもないことも確かである。私自身はどうかと言えば、自分にとっての出来事を不幸だととらえることは一生涯ないだろうと思っている。それはある人々には受け入れがたいだろう信念に基づいていることもあるし、そうしたものの捉え方がいわば一つのテクニックとして身についていることにもよる。

 以前友人にこんなことを言われて考え込んだことがあった。

「君は本当の不幸を経験したことがないから、わかんないんだよ」

 どういう状況下での言葉だったかの記憶は全く定かではないのだが、とにかく思いもかけず唐突に吐き出されたその言葉に戸惑ったことをよく憶えている。彼がその時何を伝えたかったのかを考えるよりも、私はその『本当の不幸』という彼の観念そのものにのみほとんど関心を奪われてしまった。彼が何を体験したのか、私は知らない。その経験について具体的な話を聴いたという別の友人によれば、確かになかなか大変なことではあったらしい。

 彼の言うとおり、私は本当の不幸などというものを経験したことがない。かなり、のほほんと暮らしてきたし、大きな厄災などに見舞われたこともない。体も(腹痛以外は)健康だし、人間関係にも恵まれてきたと思う。彼が自分でそう言うからにはよほどの経験だったに違いなく、私のようにお気楽な人間が存在していること自体が何か申し訳ないような気もしてくる。

 彼は確かに不幸だと思う。いや、現在はどうかわからない。少なくとも、当時は不幸だったと思う。『本当の不幸』というものが本当に不幸なことなのかどうかは別として、『本当の不幸』を経験したと考えていること自体が不幸なことである。そして、そう考えることによって『本当の不幸』は本当に不幸なことになる。不幸だというとらえ方をするまでは、それはただの出来事でしかない。違うとらえ方をすれば、それは決して『本当の不幸』などではない。

「それは『本当の不幸』を経験していない人間の言う無責任な想像に過ぎない。『本当の不幸』を経験していない者がそれについて語る資格はない」

 そう彼は言うかも知れない。だが、同じ経験をしなければ人に何も言ってはいけないというならば、他人に何かを言える人間などいなくなってしまう。人を殺さなければ殺人者に対して何も言えないなんてことは決してないのだと私は思う。もちろん、自分とはかけ離れた境遇にいる人間の言うことよりも、同じような体験を持った人の言葉に耳を傾けやすいという面はあるには違いない。しかし、同じような体験を同じように受け止める人間はそうそういるものではない。それぞれの人間にとっての体験が様々なように、ある体験に対する反応の仕方もまた様々なのだから。それにもう一点、今の人生の体験が自分の全ての体験だとは限らない、と私は思っている。まあ、これはまた別の話。おいおい考えていきたい。

 ここで、多くの人々の持つだろう価値基準からして、不幸な境遇にある、あるいはあったと判断されそうな人々の立場からものを考えてみたい。

 夏休みに仙台へ帰省した。障害者となった友人の堀内と森田(いずれも仮名。「はじめに」参照)に会った。久しぶりに3人で会うつもりだったが、都合がつかずに2人とそれぞれ会うことになった。別々に会ったのは結果的にはとても有意義なことであった。それぞれの精神状態と会話のペース(片方は筆談なので、3人でバランス良く会話をすることはそれほど簡単ではない)に照準を合わせることができたからである。2人の精神状態の違いについては以前から感じてはいたものの、今回は本人達の口からはっきりとそれを聴くことができた。

 先に会ったのは堀内だった。彼は最近プールに通っているらしく、そこである男性と知り合いになった。実はその男性は高校3年生の時の私のクラスメイトだった。堀内とはクラスが違っていたので、お互いのことは全く覚えていないそうである。そんな彼、O君がプールに通っているのも堀内同様、リハビリと楽しみのためのようである。5年前に事故で右半身不随になったという。私はO君とはクラスが同じというだけでほとんど話したことはなかった。当時、彼はサッカー部に所属するスポーツマンで、かなりの運動神経と筋力を誇っていた。いつも妙に明るく、はつらつとしていた。人当たりがやさしく、彼女もいるという話だった。悪い意味では全くなく、なんともいえない独特の世界を持った男という印象があった。

 そんなO君の現状はと言うと、表面的には昔と変わらず明るいようだが、「俺は不幸だ」という思いを悶々と持ち続けているようだとの堀内の話である。それについて堀内はこう語った。

「俺はリハビリとか職業訓練校とかで随分他の障害者を見たけど、自分の障害なんてまだまだ大したことがないんだと思った。もっとひどい障害の人がいっぱいいるんだということがわかった。俺はこんな風になったおかげで、健康だったら考えもしなかったに違いないようないろいろなことが分かったし、いろんな人にも会えたから、すごく良かったと思ってる。自分が不幸だとは全然思わないよ。だからO君にもそういう考え方を教えてやりたいんだけど、なかなかそういう話に持っていけないんだよな」

 以前には「死にたい」とこぼして、周囲に当たり散らしたこともあったという彼が、ここまでの心境に達しているということを改めて知って、とても嬉しかった。

 翌日、この話を森田に伝えると彼は言った。

「また1人鬼山の周りにそういう境遇の奴(O君のこと)が増えたってわけだ。でも、堀内はたいしたもんだな。俺はO君と同じだよ。自分は不幸だっていう思いから全然抜けられない。『五体不満足』の乙武君が言ってたでしょ、『障害は不便だけど不幸じゃない』って。俺はそんな風には考えられないよ」

 気長に行こう、と私は思った。

 別に医療や福祉に携わっているわけでもなく、危険な環境に身を置いているわけでもないのだが、どういうわけか私の周りには病気の人間や早く亡くなってしまった人が多いようなのである。単純な見方をすれば最も『不幸』とのレッテルを貼られやすいこれらの人々について、以下順番に書いてみたい。

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