パラビオシス
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不可視の世界

 はっきりした事は分からないが、日本人のうち、死後の世界を信じている人は過半数ほどはいるらしいというアンケート結果を見た気がする。13億人を擁する中国という無宗教(を建て前とする)国があるからなんとも言えないが、大抵の国では日本よりも宗教に対する信仰心が強いので、世界全体を押し並べて見れば、おそらく死後の世界を信じる人々の比率は日本よりも高いと思う。

 別に死後の世界だけが不可視の世界というわけではない。いわゆる超能力もそうだし、占いなどもそうだろう。宇宙人の問題だって不可視の世界と切り離すわけには行かない。もしも、そうした精神世界が存在するというのなら、それがこの地球独自のものであるはずはなく、得体の知れない宇宙人世界においても、同じ不可視の領域が現存しているに違いない。その場合、地球のそれとどこかの星のそれは、マックとウィンドウズぐらいの違いはあっても、要するに同じ宇宙のルールに則って形成されているものだろう。どこかの星でも、
「霊界なんてあるわきゃない。死んだらおしまいだ」
「いや、魂は永遠です」
 なんて議論が交わされているかも知れない。

 私は幽霊など見た事はない。UFOも見た事はない。私の体験なんてものはホントにささやかなものであって、例えば『ヒゲのOL、テレパシー事件』とか(『ヒゲのOL』参照)、『宮城県沖地震、虫の知らせ事件』とか(うんち君のこぼれ話『恐怖新聞配達』参照)、最近では『ゲームセンター、重力アップ事件』なんてことがあったぐらいだ。大した話じゃないが、一応『ゲームセンター、重力アップ事件』を説明しておこう。

 私の住んでいる場所の直ぐ目の前に、独立したゲームセンターの建物がある。元々は有名どころの『紳士服のなんたら』という店だったが、それが出て行った後に入ったのが今のゲームセンターである。妻のちょっとした知り合いの女の子が、以前にこのゲームセンターでバイトをしていたことがあるそうなのだが、その子の話によると、
「あそこ、雰囲気が悪くて、誰もいないトイレとか階段の踊り場とかで人の気配を感じたりするんですよ」
 とのことである。職場の人達も皆そんなものを感じていたそうで、
「階段で男の子を見た」
 という人もいたらしい。

 我々もたまには入ることがあるのだが、トイレには行ったことはないし、階段を上がった記憶もほとんどない。以前、紳士服屋だったときには明るい雰囲気で特になんとも感じなかったのだが、ゲームセンターになってからは確かにあまりいい感じはしない。しかし、ゲームセンターなんてちょっと薄暗くて雑然としているものだから、雰囲気があまり良くないのは当たり前と思って特に気にも留めなかった。それが、割と最近になって、妻と2人で2階に上がることになった時の事。
「そういえば、ここに幽霊が出るとか言ってたよね」
 なんてことを言ってから、2人で一緒に階段を上がって行った。
「あれ?」
 すると、どうも途中から急激に体の重さを感じたのである。まるで重力が強まったかのように体全体がズシリと重い。今までに一度も味わった事がない感覚である。それは2階に上がりきってからも同じで、
「なんか、急に重くならなかった?」
 と妻に訊くと、妻も全く同じ感覚があると言って驚いている。あまり良い感じではないので早急に階下に降りると、体は元のとおり軽くなった。

 こんなのは大槻教授や松尾貴史なんかに言わせたら(何かというとこの2人が出て来て、まるで目の敵にしているようだが、まあ、そうである)、
「暗示です」
 の一言で片づけられてしまう事は目に見えている。その言い方を想像して勝手に腹を立てるのだが、もちろんその可能性があることぐらい私もわかっている。しかし、暗示である可能性があるからといって、暗示ではない可能性を否定する事は決して出来ない。そこを、
「暗示です」
 と断言するから腹が立つのだ(想像上で言われてるだけなんだが、あまりにもリアルに想像できてしまうからやっぱり腹が立つ)。

 ちょっと心を落ち着けて。

 暗示であったにしても暗示でない力が働いたのだとしても、ちょっと面白いのは私と妻が同じ感覚、“重い”という肉体的な感覚を共通して持っていたということだ。それは、私が「重くないか?」と訊いたから妻もつられてそう感じた気になったのだ、と言われたらもう話にならない。この事象だけを捉えればそういう説明もつくかも知れないが、我々夫婦の性格と、それまでの人生で感じてきた印象と、多くの人々の体験を勘案すれば、そうじゃないと言うほうが自然な選択である気がする。要するに、気のせいじゃない、2人ともそれぞれに同じものを感じた、と言っちゃいたい。

 結局のところ何が言いたいかといえば、なんとも証明のしようのないことを一つの答えとして結論づけようとしたところで始まらないという事だ。不完全な証拠を突きつけて、「信じろ」といったところで意味がない。何が真実かわからないところには選択の自由が存在する。
「それであんたが生きやすいなら、そう信じていれば?」
 ということだ。

 私が人生を生きる上で基盤としている考え方がある。それこそ不可視の世界に属することだが、その内容は固定されたものではなく、新しい知識や経験を得た時にその都度少しずつ加えられ、削られ、変更されるが、基本的な部分については決して揺るがないものだ。もちろん私がそれを信じる選択をしただけのことであって、状況証拠的なものを提示できることがあったとしても、今のところ証明が出来るような話ではない。すなわち一種の信仰とも言えるから宗教的と捉えられるかもしれないが、確かに宗教的ではあって、しかし宗教そのものではない。私は特定の宗教を信仰していない。もちろん唯物主義者だからではなく、それぞれの宗教の教義に不満足であり、ひとつの宗教として括られた場合の、その閉鎖性、排他性、不自由性を受け入れられないからだ。

 それぞれの宗教の教義には少なからぬ素晴らしい真実が含まれているに違いないが(ほとんどろくでもない類のものもあるようだが)、特定の宗教に縛られた“理解度の足りない”人々が引き起こす弊害は説明するまでもない。宗教が争いの名目となり、憎しみの理由づけに使われ、殺戮を正当化する道具として利用される現状を見れば、宗教が存在する事による害悪は、それが人々に与える利益を大きく上回っているのではないかとさえ思ってしまう。つまり、こんな状態なら無宗教の方がまだましかも知れないとも思えるのだが、比較のしようもないので結論はもちろん出せない。しかし、どうして人を殺してはいけないのかとか、人を愛すべきなのかとかいったことを、宗教の教義として受け入れることによって己をセーブしているような人達も確かにいるわけで、その歯止めが全くなかった場合には、やはり今よりもさらに乱れた世の中が続いているのかも知れない。

 そもそも、ある宗教が始まる時には、多くの場合、その教祖は人々を戒めるために教義を作ったわけではあるまい。近年の新興宗教は別として、宗教団体としての体制を作るつもりもなかったかも知れない。結果的にそれが戒めになったとしても、要するに彼らは、これが世界の、宇宙の真実である、ということを純粋に言いたかっただけに違いない。その中には重大な真実が多く含まれていると私は確信しているが、彼ら自身も完全ではないし、その言葉も死ぬまで常に変化し、試行錯誤を重ねていただろう。誤謬もあるし、理解の及ばないところも当然あるはずだが、弟子たちや後の世代の人々が、そのいわば未完成の教えを恣意的なあるいは未熟な解釈で補って、絶対的な教義として体系づけてしまう。そうしてでき上がった宗教は、曖昧な部分を許さない偏狭な教義に縛りつけられ、疑問を抱くことを許さない絶対的権威として人々の精神と生活を支配するようになる。

 宗教という形をとってしまった場合に最も問題なのは、『自分たち』と『自分たち以外』という分裂を引き起こすことだ。自分たちの宗教が絶対なら、少しでも違うことを主張する他の宗教や宗派は当然異端であり、間違いであり、インチキであるということになる。無宗教などももちろん大いなる過ちである。といったわけで、「汝、殺すなかれ」なんて教義はどういうわけかそっちのけで(「ただし、悪魔なら殺してもいい」とかいった理屈を勝手にくっつけちゃったりするんだろう)、異教徒殺しに奔走する集団と化したりする。ちょっとでも冷静な目で眺めてみれば本当に考えられないことだ。その宗教を信奉していて、どうして人殺しが可能なのか、本当にあんたたちは教義を読んでいるのか、と問いたくなる程に理解ができない。神のために戦っていると信じている彼らは、自分の頭で考えることを放棄しているのだろう。人殺しを指導している者の言うことを、ただ鵜呑みにしてそれに従っているだけなのだ。解釈するのは指導者であって、末端の信者はそれを受け入れてさえいればいいという、実に安易で怠惰な非進歩的態度がはびこっているに違いない。では、そうした“あり得ない解釈”を伝えている指導者達はいったい何なのかといえば、おそらく単に頭がおかしいのか、あるいは意図的にねじ曲げた解釈をしてその宗教を利用しているかのどちらかだろう。

 実のところ、
『普通の人たちに教えを伝えたところで、その内容は伝言ゲームのようにすぐに原形を留めないほど変化させられてしまう』
 ということは、優れた先人達には予めわかっていたことらしい。ゆえに、主立った宗教には表向きの”公教”とは別に、裏メニューとでも言うべき秘教とか密教とかいったものが用意されているという話を聞いた。キリスト教にさえそれはあって、その所在も存在することさえも秘密にされ、素質ある極く少数の選ばれし者だけにその真の教えが厳密に伝えられるという。それは肉体的、精神的な厳しい修業を伴うもので、霊的、超能力的な技術を身に付けるような、極めて具体的で実践的な内容らしいが、本で読んだ以上のことはもちろん知らない。しかしながら、そうした真の宗教理解者達がこの世界に何をもたらしているのか、そのあたりが見えない。己の修業にのみ励んでいるのか、活躍の時期が来るのを何千年もじっと待っているのか、実は陰で強い影響力を行使し続けているのか、それともやっぱり少人数では何もできないということなのか。結局のところ世界は、伝言ゲームの末端にいて公教をさらに曲解したような“理解度の足りない”人々に掻き回されているように思える。自分で考える事をしない、自分で解決の道を探ろうとしない、自分の人生の責任を自分で取ろうとしない、そんな世界中の数多くの人々が、彼らに好き放題させる特権を与え続けているのではないか。

 現在の世界における宗教の影響力は計り知れないほど大きい。その内容が健全で、人々に本当の幸福をもたらすものであり、そしてそれを人々が真に理解しているというのならどれほど素晴らしいか知れないが、残念ながら実態はそんな理想とはかけ離れている。だから、もしも真剣に自分の人生を生きようと思ったら、特定の宗教の教えを全面的に受け入れるような態度を続けられるはずがない、と私は思っている。それは自分の人生を他人に預ける行為に等しい。本当に進歩的な人は、特定の聖人を絶対視して奉ったりしない。もしも、釈迦やキリストが今生きていたなら、彼らは仏教徒であることもキリスト教徒であることも決して受け入れないだろう。それが己を小さく制限してしまう行為だと分かりすぎるほどに分かっているはずだから。そう思うがゆえに、私は宗教家を信用しない。
「私は○○教の人間です」
 と言う人には、ある程度以上の信頼を置こうとは思わない。

 不可視の世界に関して私自身が受け入れている思想や哲学は、いわば寄せ集めみたいなものである。色々な宗教で共通して言われてきているような考え方や、特定の神秘思想家が述べたようなちょっと特異な思想もある。前に述べたようにもちろん証明はできないが、それでも自分の体験や感触から、
「これは真実でしかありえないだろう」
 とか、
「こうであってくれないと生きる価値がない」
 とか、
「この考え方を念頭に置いて過ごせば、健全に生きられる」
 といった手応えを得て、厳選していくのである。実感の薄い事柄は分からないまま保留して、全面的に受け入れる事も拒否する事もしない。もちろん、今信じている事を、後々、間違っていたとして捨て去る可能性もいくらだってある。何を信じ何を信じないかという選択権は自分の立場に自由度があるからこそ確保されるものだ。特定の宗教に身を置いていたら、チンピラの一信者が教義の一部を否定することなど決して許されない。
「私はここを信じません」
 と言ったら、理解が足りないダメ信者というレッテルを貼られるだろう。
「君の考えなど、偉大なあの方の教えと比べる価値もあるわけがないのだから、ただあの方に全てを委ねて信じていればいい」
 なんてことを言われるのがオチなのだ。

 しかし、自分の人生を他人に預けきっちゃいけないのである。もしも、キリストの実像にアクセスできたとして、その存在がいかに完璧に近かろうとやはり完璧ではない。彼の言うことは一般論であって、基本を述べているに過ぎないのであって、あなたの人生の全てを語ってはいない。彼の人生とあなたの人生は別のものであり、彼があなたについて語っていないことをあなたは自分で見付けなければならない。最初から他人任せにする人間は、何かがうまくいかなくなったときに責任も他人任せにする。
「彼の言うことに従っていたからおかしくなった。責任をとってなんとかしてくれ」
 こんなことを当たり前の顔をして言っている人間が世界中にあふれている。彼らは、最初から自分の人生に責任を持ちたくないから、全てを他人任せにしているのだ。だが、勘違いをしてはいけない。人生を誰かに預けきったこと自体が、自分の責任である。
「彼が間違っていたのだから、責任は全て彼にある」
 なんてことはとんでもない。責任は全て自分にある。無責任な人間ほど世の中になにももたらさない存在はない。

 私は永遠の生を信じる。そうでないと、生きるのが難儀だからだ。最も重要と思われる信条が成り立たないからだ。私が最も重要と考えている信条とは、

『自分の人生で起こることは全て自分に責任がある』

 というものである。不運な事故が降りかかっても、一生うだつが上がらなくても、踏んだり蹴ったりでやること成すこと全てうまくいかなくても、逆にやたらといいことばかりが起こり続けても、それはみんな自分自身がもたらしているということだ。別に因果応報ということばかりを言っているわけではない。そういう考えを否定はしないが、人生はそんな単純な話でもないと思っている。全ての不幸も全ての幸福も、その人のその状況でなければ体験できない。全ての体験はその人にとって貴重な宝だ。体験を経なければ、人間は何も知ることができない。特異な体験であればあるほど、キツイ体験であればあるほど、そこから得るものは大きく、人間が成長できる幅は拡がるはずだ。過去に善行ばかりをしてなお、不幸のどん底にあえぐ人間の苦悩を体験したいという魂の欲求があれば、その願いは叶えられるだろう。前世の悪行の報いのみが現世の不幸の理由ではない。私はそんなことを思っている。

 自分の人生の全ての責任を自分が負っているということは、言い換えれば、自己に必要な状況を招き入れる権限は全て与えられているということだ。

『不可抗力に思えるような出来事でさえ、自分自身でプロデュースした人生の一シーンである』

 というこの考え方は、ある人々にはとても馬鹿馬鹿しく思えるだろう。なんの根拠も無いのにそんなことを本気で信じている幼稚な奴という思いがあるかも知れない。私は本気で信じているが、しかし、実のところそれが本当でなくとも構わない。唯物主義者達の言うように、人生は一度きり、幸運も不運もただの偶然、というのが真実だったとしても、私の信じる信条に従って生きることが、なんのデメリットももたらさないことを確信しているからだ。どんなに辛い状況に置かれていたとしても、こうした信条に従って生きることが、必ず幸福をもたらすと私は思っている。ここでいう幸福とはもちろん精神的な満足のことだ。幸福とは精神の状態のことだと以前に書いたと思うが、そうした意味で最も幸福に近づきやすいテクニックがこの信条に従う生き方だと思っている。
「それであんたが生きやすいなら、そう信じていれば?」
 と、初めの方で書いたのは、要するに幸福になる信条を選択すればいい、という意味である。

 しかしながら、やはり辛い状況にあれば人間は落ち込む。私など、ちょっと批判めいたメールが来ただけで一気にヘコんでしまう(すぐ忘れるが)。ましてや、イジメ、虐待、病気、犯罪、事故、なんてものにでも見舞われたら、まともな思考はできなくなるだろう。深い傷はちょっとやそっとの時間で回復できるものではない。
「全て自分に責任があると言われても、そんな責任は重すぎて背負いきれない。もう死んじゃいます」
 という人は多いだろう。『責任』と言うと、悪いことをしたことに対して生じる義務のようなイメージだから、ヘコんでいる人に向かって使うには適さないかも知れない。極限的なプラス思考で表現すれば、その辛い状況は人生において貴重な経験を得るための最大のチャンスなのである。ここで、もう一つの重要な信条を披露しておく。

『人生において与えられる試練で乗り越えられないものはない』

 自分が今直面している苦難はもう乗り越えられないと思えば、死ぬしかない。だが、上の考えを信じて、自分の体験から貴重な知識や強さを得ようと思えたら、その瞬間に、自ら死ぬという選択肢はなくなる。そういう考え方を皆が身に付けたら、自殺者はゼロになると私は思っている。それほどキツイ状況を自らに課しているということは、それを乗り越えられるだけの逞しさをあなたが持っているということなのだ。そして、それを乗り越えるという経験をあなた自身が最も欲しており、その経験により、あなたという人間が強くなり、やさしくなり、深くなることをあなた自身が計画したのだ。それが、『自分の人生で起こることは全て自分に責任がある』ということの意味である。私はそう信じている。もしも、私の信ずるようなそんな不可視の世界が実際には存在しないのだとしても、その考え方を受け入れたときにあなたは本当にそれを乗り越えられるはずなのだ。それだけでも随分と素晴らしいことではなかろうか。

 私は会社の同僚を自殺で失っているので、自殺者を減らしたいという思いがある。
「人生はつらいですね」
 とメールで書いてきた友人に、もっと楽に生きてもらいたいと思う。自分の気持ちだけで、どれだけ人生が変わるかを知ってもらいたいと思う。周りに責任を転嫁し、自分を真摯に見ることをせず、結局自分を救えないでいる人々をとても残念に思う。得な生き方を選択してもらいたいと思う。ただ闇雲に信じろとは言わない。それではどこかの宗教と同じになってしまう。自分で考えて、感じて、納得して、判断して欲しい。

 便宜的にでもいいから生きやすくなる考え方を受け入れればいい、とはいっても、そんなことは所詮無理なのかも知れない。受け入れるということは、結局、本当に信じるということであって、本当に信じなければそんな生き方はおそらくできないだろうから。私が何を言っても、どうするかはやはり各人の自由だ。私はそうした不可視の世界を信じていて、その生き方に満足感を抱いているとただ言い続けるしかない。

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