フランク・フリップ
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スティーリー・ダン 〜Steely Dan〜

 よもやスティーリー・ダンのステージを生で見られる日が来るとは思っていなかったが、再結成というか活動再開のライブを代々木体育館でやってくれるというので、喜び勇んで見に行った。もう10年以上前のことだ。

 スティーリー・ダンといえば都会的でセンスあふれるクロス・オーヴァーな大人の音楽といった風情だったから、客層もクリムゾン・マニアなんかとは相当に違った。スーツ姿でビシッと決めたお洒落なカップルみたいな連中がやたらと目に付く。

「ほら、これがセンスが良くて知的な僕が大好きなスティーリー・ダンだよ」
「まあ、貴幸さんみたいに洗練されてるわね、素敵」

 なんて会話がそこかしこで行われている。…はず。

「なんじゃお前らは。音楽は耳で聴け、魂で聴け、ファッションで聴くな!」

 と言いたくなるが、別に上記の会話を直接耳にしたわけじゃないので、私の妄想によるただの言いがかりといえる。ついでに彼らの妄想会話の続きはこんな感じ。

「ドナルドさんはとっても都会的でダンディだけど、もう一人はなんだか…」
「ああ、ウォルター・ベッカーはね、きっと普段はトラクターを運転してると思うんだよね、想像だけど。でもこの二人が二人三脚で造り上げたのがスティーリー・ダンなんだ。まさに鉄の結束だね」
「あら、そうだったの。人を見かけで判断しちゃいけないのね。きっと彼も才能溢れる人なんでしょうね」
「もちろんそうさ。次はベッカーのソロ曲だよ。彼の才能を確かめてみよう」
「……」
「……」

 妄想はともかく。あのライブ時は再結成といってもアルバムを作ったわけではなくて、少し前にドナルド・フェイゲンが10年以上ぶりのソロ・アルバム『カマキリアド / Kamakiriad』(カマキリとは関係ないらしい)を出したのがきっかけで、同アルバムのプロデュースをやったウォルター・ベッカーと一緒にツアーに出たという経緯だった。新曲はフェイゲンの『カマキリアド』からのソロ数曲と、ベッカーのその後に出るソロ・アルバムからの1曲のみで、あとはスティーリー・ダンとかつてのフェイゲンのソロ曲(たぶんやった気がする)という懐メロ大会だった。かつての名盤をレコーディングした当時の超一流セッションミュージシャン達を伴ってきたわけではないので、音的にははっきり言って物足りなさを感じずにはいられなかったが、あのドナルド・フェイゲンを生で見られたんだから、まあ経験としてはよかった。でも正直、それほど印象に残ったステージではない。

 あのライブ以後、スティーリー・ダンとして2枚のオリジナルアルバムを出しているが、それなりではあるものの、存在感という意味ではかつての作品に遠く及ばない。音作りの面で、アイディアが足りないのか、それとも熱意が足りないのか、どれも同じようなアレンジで曲ごとの個性に欠ける。加齢のせいか、安易な音作りに走っていると思わざるを得ない。フェイゲンのソロ、『カマキリアド』と何が違うの?といった印象で、このソロアルバムを合わせた近作3枚の曲をランダムで流したら、どれがどのアルバムの曲やらほとんどわからない。

 スティーリー・ダンは一応2人組で、ウォルター・ベッカーだって立派に仕事をしているのだ、という話は聞かないでもないが、ドナルド・フェイゲンの2枚のソロアルバムを聴く限りは、どうもその話が疑わしく思えてしまう。スティーリー・ダンの正体は限りなくドナルド・フェイゲンそのものに近いと感じるのは私だけではあるまい。私にとってのとどめは、あのライブでのベッカーのソロ曲だった。発売前のソロアルバムからの曲を聴かされた時、

「こんなところで披露しなければ、まだ売れる可能性もあったかも知れないのに」

 と気の毒になった。それほどまでに、フェイゲンとの才能の差を感じた。とはいえども、グループの場合、人それぞれそれなりの役回りというものがあって、フェイゲンの才能をより輝かせるという立場で、極めて重要な、彼にしか出来ない仕事をしていたに違いない。と、一応フォロー。少なくとも、1人ではスティーリー・ダンという名前を維持できない(1人でTMレボリューションなんて例はあるが)ので、大切なメンバーではある。

 現在の再活動スティーリー・ダンは、ほとんどドナルド・フェイゲンそのものだとあえて言い切ってしまうが、デビュー当時は多少違う色が混ざっていた。オリジナルメンバーはなんと6人である。リード・ヴォーカルもフェイゲンの他にもう1人デヴィッド・パーマーがいたが、彼はファースト・アルバム『キャント・バイ・ア・スリル / Can't Buy A Thrill』に参加しただけで脱退してしまう。このファースト・アルバムのオープニングを飾るのがいきなり全米6位の大ヒットとなった『ドゥ・イット・アゲイン』だが、なんだかとってもラテンであって、その後のスティーリー・ダンの曲とはかなり趣が異なる。このアルバム、メンバーが多い分、ちょっとバラエティに富んだ感じに仕上がっていて、後の洗練具合に比べるとかなり垢抜けない印象はあるが、名曲ぞろいである。

 その後も2人抜け、また1人抜けで、結局スティーリー・ダンは2人だけとなった。そもそもフェイゲンとベッカーが始めたバンドであり、曲もこの2人で作っていたから(本当はほとんど1人で作ってたんじゃないのかと勝手に疑っているが)、他のメンバーは誰でもいいといえば良かったのかも知れない。アルバム製作を重ねるごとにどんどん優れたゲストミュージシャンを多用して行く方向へむかったのに伴って、他のメンバーが抜けていくのは当然の帰結だったろうし、2人にとっては特に構わないどころか望ましいことだったかも知れない。

 スティーリー・ダンの音楽性というものは実にセンスに優れ、他に類を全く見ない独自性を持っている。お洒落なカップルが好む面を持ちながらも、決して軽薄でなく、知的でクールでいて、かつホットである。キャリアを重ねるごとに洗練度を増し、『彩(エイジャ) / Aja』や『ガウチョ / Gaucho』に至っては“完璧”という形容が大袈裟ではない。私の個人的好みからすると、『ガウチョ』はちょっと地味過ぎる気がするが、人によっちゃこれを最高傑作とする。私の評価では間違いなく『彩(エイジャ)』こそが“完璧”の評価に値すると思ってはいる。この2枚を先に聴いてしまうと、それ以前のアルバムが多少色あせて見えるが、それでもちょっと聴き込めば、どれも素晴らしい作品だと思わずにはいられない。スティーリー・ダンのアルバムにハズレはなく、どれも私は大好きだ。スティーリー・ダンをフランク・フリップで取り上げるのがちょっと遅過ぎた感もある。

 ちなみに、スティーリー・ダンという名前の由来については二説があって、ドナルド・フェイゲンの高校時代の教師のあだ名に由来するというものと、ウィリアム・バロウズの小説『裸のランチ』に出てくる、蒸気の圧力で動く巨大な張形(張子という意味もあるみたいだが、きっとこれは『陰茎の形をした淫具』のこと)に由来するというものであるらしいが、私は最近『裸のランチ』を読んでみたものの、あまりの「なんじゃこりゃ!?」的内容に中途挫折したので、ついに文中の『鋼鉄のダン』には出会えなかった。

 ついでに書いておくと、私が以前務めていた会社の後輩は、学生時代にバイクでコンクリートの壁かなにかに正面から突っ込むという事故を起こしたらしいが、体は無事であったのに、バイクの燃料タンクの一部がベコッとへこんだそうである。へこんだ部分はちょうど股間が当たる部分だったので、以後彼は、

『鋼鉄の玉を持つ男』

と呼ばれるようになった。スティーリーつながりの余談。

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