ドーミン
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大人になる

「オ〜イ」
 どこからか、頼りなげな声が聞こえた。
「あれ、今、何か聞こえなかったかね」
 ムッシュさんはモモトフに尋ねた。
「へい、聞こえやした」
「頼りないと言うか、情けないと言うか、貧相と言うか」
「オ〜イ、たすけて〜」
「また聞こえやしたぜ」
「ふむ、どうも聞き覚えのあるような」
 ムッシュさんは腕組みをして考えている。
「誰の声だったかな、ドーミンパパよ…って、あれ?」
 傍らにはドーミンパパの姿がなかった。
「ああ、そうか!」
 ムッシュさんは左の掌を右の拳の端でポンと叩いた。
「こりゃまた、随分と使い古されたジェスチャーで」
 モモトフが少し白けた顔つきで言った。
「余計なお世話だわい。そんなことより、あれはドーミンパパの声だぞ!」
「そういやそうですね、いつの間にかいなくなってる」
「オ〜イ、たすけてくれ〜」
「どうやらドーミンパパに危機が訪れているらしいな」
「へい、そのようで」
「助けに行ったほうがいいかな」
「そりゃまあ、そうだと思いますが」
「そうか。仕方ない、じゃあ、ゆっくり行くとしよう」
 ムッシュさんとモモトフは声のする方へゆっくりと歩いて行った。
「ドーミンパパの声に導かれて来てみれば、これが例の平等院放尿堂という屋外トイレだな。まったく趣味の悪いことだ。手前の池はまさか小便で出来てるわけじゃないだろうな」
「普通の水みたいですぜ。鯉も泳いでるし」
「どうだモモトフさん、ドーミンパパは見あたらないかね」
「水面は見事に静かです。わびさびを感じますなあ、日本人の心です」
「そうか。じゃあ、沈んじゃったのかな。ちょっと来るのがゆっくり過ぎたかも知らんね」
「そうですな」
「まあ、間に合わなかったものはしょうがない、便所掃除でもして帰るとするか」
「へい」

 2人は放尿堂の中へ足を踏み入れた。
「クッサイなあ、もしかして汲み取りか?」
「そのようですね、ハエもいっぱい飛んでます」
 その時、
「オ〜イ」
 再びドーミンパパの声が聞こえた。
「あ、聞き覚えのある声がしたな」
「まだご健在のようで」
 2人はドーミンパパの居場所を探した。
「見あたらんなあ。オ〜イ、ヒゲオヤジ〜、どこにいるか〜」
「あ、その声はチンチクリンじゃないか!助けてくれ、身動きがとれん」
 ムッシュさんのすぐ近くから声がした。だが、どういうわけか姿は見えない。
「誰がチンチクリンじゃ!そんな失礼な奴は助けてやらんぞ!」
「悪かった悪かった、ムッシュさんムッシュさん、いや、ムッシュ様、ミスタームッシュ、ムッシュミスター、セニョールムッシュ、どうか助けておくれ!何か少しは言うこときくからさあ」
「なんだそりゃ。『少しは言うこときくからさあ』って、それが人に物を頼む時の言葉かね。こんな状況になっても、って、どんな状況かわからんが、素直に頭を下げないオヤジだよな。『なんでも言うことききます』っていうのが常識ある者の言い方ってもんだ。私らは帰るよ。1人でなんとかするがいいさ」
「ああ、待って、死ぬ死ぬ、このままじゃ死ぬ!だから助けて!なんでも言うこときくかも知れないから」
「ふう〜ん。さあ、帰ろう、モモトフさん」
 ムッシュさんはモモトフと共に歩き出した。
「わかった!妥協します!言うことききます!それなりに言うことききます!」
「絶対に『なんでも言うことききます』とは言わないんだな。そのあたりがあんたの限界か。まあいい、私も鬼じゃないからな。助けてやろう」
「ああ、すまんねえ、さすが社長!宜しく頼むよ」
「で、どこにいる?」
「右から2番目のブースに入ってよ」
「さっき入ったけど、いなかったぞ」
「いいから入って」
 ムッシュさんたちは言われるとおりにブースに入った。上から下まで眺め回してみたが、やはりドーミンパパの姿はなかった。
「やっぱりいないじゃないか」
「そこの穴から入って」
 しかし、どこからか声は聞こえる。
「穴?穴ってどこだ?」
「トイレの穴といったら1つしかないだろう」
 ムッシュさんたちは顔を下に向けた。
「まさか」
「便器から下へ降りてよ」
「馬鹿なことを!」
「馬鹿だろうがなんだろうが、その先に私がいるよ」
「なんてこったい」
 ムッシュさんは自分の頭を叩いて嘆いた。そして、モモトフの顔を見ると、意味あり気な微笑みを浮かべた。
「なんですか、私ですかい?私に行けと言うんですかい」
「わかってるじゃないか。頼むよ。なんでも言うこときくかも知れないから」
「結局、旦那もそれですかい。言うこときくかも…って」
「まあまあ、ドーミンパパが苦しんでるんだから、ここはひとつ力になってやってくれよ、な」
「へいへい。私ゃなんでも屋ですからね。あとでお代は請求しますよ」
「どうぞどうぞ、言い値でどうぞ。ただし、代金はドーミンパパから受け取ってくれよ」
「ちぇっ」
 モモトフは渋々便器の穴の中へ身を投じた。幸い、便槽の中はほとんど空であった。
「あ、明かりが漏れてる」
 便器の穴とは別の上の方から、僅かに明かりが差し込んでいた。
「あ、ドーミンパパさん!なにやってらっしゃるんで!?」
 その明かりの中に、ブラブラと揺れるドーミンパパの尻と足が見えた。便槽の汲み取り口から下半身だけをぶら下げているのである。
「お、その声はモモトフさんか。見てのとおり、挟まってるんだよ」
「そりゃわかりますがね、いったいどうしてそんなことになったんです」
「まあそれはおいおい話すとして、一先ず、私をこの穴から外へ押し出してくれないか。苦しくてかなわん」
「わかりやした。でも、ちょっと待っててくださいまし」
 モモトフは便器の穴の下へ戻ると、上で待っているムッシュさんに状況を伝えた。
「なるほど、そういうことだったか。あのヒゲオヤジ、1人で逃げようとしやがったな」
 ムッシュさんは思いついたようにどこかへ走って行ってしまった。
「あれ?ムッシュさん!ムッシュの旦那!どちらへ行かれるんです!」
 モモトフは仕方なくドーミンパパの尻の下へ戻った。
「それじゃ、押しますぜ、いいですかい」
 すると、ドーミンパパは、
「うわっ!なんだ!」
 と、叫んだ。
「まだなんにもやってませんぜ。お尻にも触ってないのに」
「いつのまに、どっから出たんだ!」
 どうも話がかみ合っていないことにモモトフは気付いた。
「あれ?私のことじゃないみたいだな」
 どうやら、上のほうでドーミンパパの前に誰かが現れたらしい。

「まったくあんたときたら、とんだ大間抜けだなあ」
「大間抜けとはどういう意味だ?」
 ドーミンパパはムッシュさんの顔を呆然と眺めている。
「おまえさん、1人だけ逃げようとしただろ」
「な、なにを言うか、人聞きの悪い」
「言い訳はするな。あんたのやることなんて、ちゃんと分かってるんだ。汲み取り口から出れば、屋敷の外だと思ったんだろ」
「えっ!?違うの?」
 ドーミンパパは目を丸くした。
「違うから私は今ここに立ってるんじゃないか。この汲み取り口は、放尿堂の裏にある。建物をぐるっとまわったらわけもなく来られるよ。それにしても、ちょっと眺めればわかりそうなもんだけどなあ」
 ムッシュさんは馬鹿にしたような、それでいて楽しそうな表情で言った。ドーミンパパの顔は真っ赤になって、ただ恥ずかしそうに黙するばかりである。
「自分だけ逃げようなんて小さいことを考えるからだ。その腹じゃこの汲み取り口は通り抜けられないよ。何日かはまってりゃ、体も痩せてきて通れるようになるさ。ちょうど下は便槽だし、動けなくたってトイレには困らないよ。まあ、せいぜいのんびり構えているがいい」
 そう言って、ムッシュさんが立ち去ろうとしたから、ドーミンパパは大声をあげた。
「違うんだ、私はとにかく早く助けを呼びに行かなくちゃと思って、気が焦ったんだよ!
本当だ、信じてくれ!助けてくれよ!」
 ムッシュさんは立ち止まり、憐れみの色に包まれた顔つきでドーミンパパを静かに見つめた。
「大人になりなさい、ドーミンパパ」
「……」
 ドーミンパパは神妙な面持ちでムッシュさんを見ている。やがて、その瞳は涙で潤んだ。
「ムッシュさん……」
「わかってくれたか」
「わかった、わかったよ。私は大人になる。今度こそ大人になる」
 ムッシュさんの顔は笑みで満たされた。
「よし、お前さんを信じて助けてやろう。おーい、モモトフさん!下から押しておくれ」

 ドーミンパパはようやく汲み取り口から脱出することが出来た。
「さっきの言葉に嘘はないだろうな。本当に大人になるんだぞ」
「ああ、もちろんさ。あんたに言われたくはないけどね」
「ナヌを!」
 ムッシュさんは瞬時に頭から湯気を立てた。
「まあまあ、そんなことで怒りなさんなよ、大人げないから。ははは」
 ドーミンパパはいつも通りの不遜なヒゲオヤジに戻っている。
 やっぱりこいつを助けるんじゃなかった、とムッシュさんは心の底から思った。
「まあ、とっととドーミンの罪滅ぼしを済ませて、解放させてもらおうや。それが大人の責任ってやつだな」
 ドーミンパパはムッシュさんの頭をポンと叩くと、屋敷に向かって歩いて行った。ムッシュさんも慌ててその後を追って行った。

「オーイ!」
 便槽の中から声が聞こえる。
「旦那がた〜、私を出して下さ〜い!オーイ!」
 モモトフの声はいつまでも便槽にこだましていた。

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