ドーミン
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谷を出る

「さて、どこから上がろうか」
 アナフキンが頭を悩ませている。
「ドーミン、本当にこの谷を出た人はいないのかい?」
 アナフキンが訊いた。
「俺の聞いた限りでは、1人もいないらしい」
「そうか、なかなか難しいぞ、こりゃあ」
 アナフキンはいよいよ困り顔である。
「なあ、先生、やっぱり無理なんですかい、この流刑地から抜け出すのは」
 大ちゃんも心配顔で訊く。
「私1人だけでも難しいのに、君たち素人2人を引きずっていてはねえ」
「引きずって!?」
「引きずってだと!?」
 ドーミンと大ちゃんの顔色が変わった。
「ひゃあ、失言!間違いです、間違いです。“引き連れて”ですね」
 アナフキンは慌てて訂正した。
「引き連れて?」
「引き連れてだと?」
「あ、ご、ごめんなさい、じゃなくて、“付き添ってもらって”かな。いや、“お2人にお付き添い頂いて”が正しかったです、はい」
 アナフキンはあっという間に冷や汗にまみれた。
「なに言ってんだよ、アナフキン、そんなわけないじゃんか、俺達が足手まといなんだから、やっぱり引きずられて行くんだよ」
「そうだそうだ、そうに違えねえ、“引きずる”とは言い得て妙だな、先生、ガハハハ」
「あ、そ、そうですね。じゃあ、あの、しっかり引きずらせて頂きますので」
 やはり教師を辞めて良かったと、汗を拭いながらしみじみ思うアナフキンだった。

「やはりここからでは無理だ」
 アナフキンは目の前の岩壁を見上げながらポツリと言った。そこは、10日前にアナフキンが1人で降りてきた岩壁だった。
「ここにはまだアンカーもザイルも残したままだけど、素人がここを登るのはやはり不可能だ。他のルートを探すしかない」
「でも、他のルートったって、みんな似たような絶壁ばっかりだよ、アナフキン」
「そうだぜ先生、俺達素人に本当に登れるのかい」
「本当にこういう崖しかないのなら、はっきり言って無理です。そもそも君たちの分の装備がない」
 3人の間にしばらく沈黙が続いた。

「やはり山登りの経験者があと2人、せめて1人はどうしても必要でした」
 アナフキンが口を開いた。
「俺達じゃダメなの?」
「俺らは役立たずかい、先生」
 ドーミンも大ちゃんも落胆の表情を隠せない。
「残念ながら。それに2人はちょっと体が重すぎるように思います」
「うっ!」
 痛い所を突かれた、とドーミンは思った。確かにそれはこの2人にとって最大の難点に思えた。

 ところが、
「冗談じゃないぜ、先生!」
 大ちゃんが血相を変えて叫んだ。
「ひゃあ、ごめんなさい!な、な、なんでしょう…?」
「俺はね、先生、図体はでかいが体は軽いんだ。そこら辺のお姉ちゃんよりよっぽど軽いぜ。なんたってな、俺の体にはガスが充満してるんだ。知ってるか先生、『屁』ってのは空気の半分の重さなんだぜ。そのおかげで俺の体には浮力が働いてんのさ。この流刑地に流されたのだって、この身一つでドンブラコドンブラコとやってきたんだ。あの大滝だって見事に落っこちて来たのさ。その俺をつかまえて、重いとは言わせねえ」
 大ちゃんはその己の『風船体』にプライドを持っているらしい。
「は、はあ、そうでしたか、それは失礼しました」
 アナフキンは恐縮した。
「屁ー、あ、違った、ヘエー、凄いんだね、大ちゃんの体。じゃあさ、もっと軽いガスを詰めたら空に浮かんじゃうのかな」
 ドーミンがそう言った瞬間、3人の頭に同じ考えが閃いた。

「あっ!」
 3人は顔を見合わせた。
「可能ですか、大ちゃん」
 アナフキンが訊いた。
「可能どころか、俺達の種族は毎年そうやって浮かんでるんだよ。『風船祭』ってやつでな」
「凄いや大ちゃん、それだよ、その方法しかないよ!」
 3人は色めき立った。しかし、その興奮もすぐにたち消えた。
「しかし、肝心のガスがない。ヘリウムガス、いや、水素ガスが必要でしょう。この谷にそんなものがあるとは思えない」
 アナフキンは目の前に立ちはだかる断崖を見上げながらため息をついた。

 そのとき。

「ズンズンチャッチャ、ズンズンチャッチャ…」
 遠くから軽快な音楽が流れてきた。
「なんだ?あの能天気な音楽は…」
 音はだんだんと近づいて来る。
「アイスクリーム、アイスクリーム、アイスクリームだよー…」
 どうやら物売りらしい。
「アイスクリーム屋かあ」
「ホーットドッグ、ホーットドッグ、ホーットドッグも…」
「ホットドッグも売ってんのか」
「ギョーザー、ギョーザー、物干しー、サオ竹ー…」
「何屋だよ、あれ」
「コンチワー、ガッガガー、まいどありー、ガッガガー、僕はアヒルの洗濯屋ー…」
「洗濯屋だってよ。あ、見えた見えた」
 その物売りは背中にスピーカーを担いでいた。
「なるほど、ああやって宣伝しながら歩いているわけだ、おーい、洗濯屋ー!」
 大ちゃんが叫んだ。
「主は言われた。神の国は近い…」
「おいおい、布教活動まで始めやがったぞ、なんだあいつ。おーい!」
 大ちゃんはもう一度叫んだ。
「聞こえないみたいだね。あのボリュームだからなあ。俺、ちょっと行ってくるよ」
 ドーミンが物売りのもとへ駆けて行った。

「おーい、洗濯屋さーん」
「ちり紙交換車でございます。ご不要になりました、古新聞、古雑誌、自転車、オートバイ…」
「ちょっとちょっと、“交換車”って、あんた、徒歩じゃんか」
 ツッコミを入れると、物売りはようやくドーミンの存在に気がついた。
「おや、お客さんですかい?」
 物売りは緑色の服に身を包んでいた。ドーミンが初めて目にする男だ。全身緑色と言えばアナフキンと同じだが、この物売りの服はアナフキンのそれよりも色が濃い。太もものところに『モモトフ商会』と書いた札が貼ってある。モモトフというのが彼の名前らしい。
「こんちは。おじさん、なにやってんの?」
「なにやってるって、物売りだよ、聞いてりゃ分かるだろ」
「だって、布教してたし…」
「ああ、あれはね、いろんなテープの寄せ集めだから、ちょっと混じっちゃったんだよ、気にしないでおくれ」
「ときにおじさん」
「へい、らっしゃい」
「いや、別に何かを買おうってわけじゃないんだけど」
「なんだい、冷やかしかい。冷やかしなら帰っておくれ」
「でも、買わないって決まったわけでもない」
「そうでしたか。へい、らっしゃい」
「おじさん、どこから来たの?見かけない顔だけど」
「それは企業秘密、企業じゃないけど。とにかく言えません」
「ふうん。おじさん、ずいぶんでかい荷物だけど、なんでも売ってんの?」
「売ってるよ」
「ほんとに何でも?」
「人身売買はやってない」
「あんまりおっかないこと言わないでよ」
「まあ、たいがいの物なら売ってるよ」
「じゃあさ、ないとは思うけど、水素売ってる?」
「へい、まいど。いかほど?」
「……!」
「もしもし?」
「ほんとに売ってんの?」
「売ってます」
「……!!」
 ドーミンは道の向こうで待っている大ちゃんとアナフキンを見た。そして大きく手招きした。

「ほんとは現品がないと交換しないんだがねえ、まあ緊急事態だというから特別だ」
「ありがとうね、おじさん。さっき説明した倉庫の中から好きなギター持ってっていいからね」
「おたくの親父さんとはホントにちゃんと話がついてるんだろうね」
「大丈夫大丈夫」
 ドーミンはドーミンパパのギターを勝手に売った。ヒゲオヤジがどれほど怒るかは分からないが、知ったこっちゃない。俺はグレた息子なのだ。そうドーミンは思った。

「さてと、それじゃあ詰めようか」
 大ちゃんの体からは既に普段のガスが抜かれている。丸々としていた風船体がスルメのようにしぼんだ様を見て、ドーミンもアナフキンも笑いをこらえるのに必死だった。
「えーと、どこに差し込めばいいのかな?」
 モモトフはボンベに繋がれたホースの先端を大ちゃんのお尻の穴に入れようと試みた。しかしなかなかうまくいかない。
「わからん!誰かやっとくれ。そもそもなんで私がそんなことまでやらなきゃならないんだ!」
 モモトフは癇癪を起こした。
「まあまあおじさん、落ち着いて。こっちには穴探しのプロがいるんだから」
 ドーミンがモモトフをなだめた。
「どうせ私のことなんだろうけど、私は別に穴探しのプロじゃないですよ、ドーミン」
 アナフキンがムッとしている。
「2人のうちのどちらかがやらなきゃならないんだから、やっぱりここはアナフキンの出番でしょ。『穴付近』は伊達じゃないぞ、ってところを見せておくれよ」
「そうだ、それでこそ穴先生ってもんだ!」
 大ちゃんもアナフキンを励ました。
「まったく…」
 アナフキンは不満顔ながらもホースを手に取ると大ちゃんのお尻に手をやり、穴付近を探り始めた。
「ほれ!」
 ホースは簡単に差し込まれた。
「すごい!見事なお手並み!やんや、やんや!」
 ドーミンと大ちゃん、そしてモモトフまでもが拍手喝采をした。
「私はやっぱりその道のプロなんですかねえ…」
 アナフキンは複雑な心境だった。

「それじゃあ始めるよ」
 モモトフがボンベのバルブを開けると、大ちゃんの体はみるみる膨らみ出し、普段の体つきに戻った頃にはぷかぷか浮かび出した。しかし、ドーミンとアナフキンを両脇に抱えながら完全に浮き上がるためには、まだまだ水素ガスの注入が必要だった。
「あんた、どこまで膨らむんだい?途中で破裂なんぞしないだろうね」
 モモトフが少し心配そうに尋ねた。
「まだまだ大丈夫。5倍ぐらいに膨れてもまだ余裕があるぜ」
 大ちゃんはにこやかに答えた。

「おお、ついに浮き上がったぞ!」
 大ちゃんの体が5倍程に膨れ上がったとき、ついに3人の体は地上を離れた。
「すごいや大ちゃん、いよっ、風船体!」
 ドーミンが叫んだ。
「それじゃあ、ホースを抜きますからね。お兄さん、ガスが漏れないようにすぐにケツの穴をキュッと締めてね」
 大ちゃんからホースが外された。
「じゃあ、ロープを外すよ!おさらばだよ!」
 ついに3人の体が宙に放たれた。見る見る地面が遠ざかって行く。
「これがドーミン谷なんだ!あ、俺ん家が見える。すごいなあ」
 ドーミンは興奮した。
「まいどありー!」
 地上でモモトフが手を振っている。スピーカーから声が聞こえてきた。
「水素ガスは燃えやすいからねー、気をつけてー。ヒンデンブルグ号を忘れるなー」
「嫌なことを言いやがる」
 ドーミンたちは気分を害した。
「まあいいさ、気にするな。さあ、トリガー君を助けに行こう!」
 アナフキンが声を掛けた。ドーミンとアナフキンは手にしたウチワで舵を取りながら空中を泳いだ。目指すはトリガー君の墜落地点である。

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