出不精が行く!!
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うろ覚え中国旅行記 〜その5 怒りのオッサン〜

 さて、いよいよ中国旅行も最後の日となったが、最後の主役は自らを評論家とおっしゃるところのオッサンである。

 それがどこだったのか、今となってはわからないのだが(というより、当時からまるでわかっていなかった、というのが正しい)、我々はとある土産物屋を訪れていた。寺だったような気もして、本当に土産物屋だったか、その辺の記憶は曖昧だが、この時のオッサンの言動だけははっきりと覚えている。

 そのお店の奥にあるテーブルには二人の書道家が腰掛けていて、観光客のためにデモンストレーションを行っていた。書の達人のお二人が、無料で希望者の名前をしたためてくれるという。喜んだのは御婦人方と評論家のオッサンだ。もちろん我々設計事務所の人間はいつものごとくシレッとして傍観に徹していた。

 たぶん、真っ先に書いてもらっていたのが、評論家のオッサンだったように思う。書いている横で、ニコニコと嬉しそうにその様子を眺めていた。書道家は、最後にハンコを捺し、墨が乾いたところでクルクルと丸めて筒に入れて渡してくれる。オッサンは確かにそれを受け取ったと思う。オッサンの次には彼のお友達のおばさん、それから姦し御夫人トリオが次々とそのサービスを受けた。

 しばらく店の中を物色させられて(ツアーの行程のひとつだから、我々はそれを従順にこなした)、そろそろ店を出ようという時、店の奥のほうから御夫人トリオの騒ぐ声が聞こえた。

「コレ、忘れてるわよ! 誰のかしら!」

 なんだか騒いでるなあと思いながらも店の出口へ向かっていると、

「博士! コレ、博士のじゃないかしら!」

 と背後から声を掛けられた。たぶんお忘れだと思うのでもう一度書いておくと、旅行中、私はこの御夫人トリオからは『博士』と呼ばれていた。

 振り向くと、御夫人の一人が、書の入った筒をひとつ持って振っていた。

「いえ、違います」

 そもそも私は書いてもらってないのだから、私のものであるはずがない。引き続き御婦人方は持ち主を探して騒いでいたが、しばらくしてようやく持ち主が判明した。評論家のオッサンである。あの大騒ぎを見ていないはずはないオッサンが、どうして名乗り出なかったのかはわからないが、持ち主であるから当然御夫人はその筒をオッサンに渡そうとした。しかし、なぜかオッサンは不機嫌極まりない顔で手を左右に振り、筒を受け取ろうとしない。なんだか妙な空気だが、持ち主なのは間違いないのだからと、なおも御夫人はそれを渡そうとした。するとオッサンは、店中に聞こえるような大声で突如こう叫んだのである。

「そんなもん、いらないよ! だいたい、あの判の捺し方はなんですか! 本当だったらあんな捺し方はしませんよ! インチキだよ! そんなのもらって喜んでるヤツはバカだ! くだらない! そんなもん、捨てちゃってくれ!」

 オッサンは怒りをぶちまけると、とっとと店を出ていった。オッサンを見送った我々は呆然として、しばし動きを止めた。

「なにあれ?」

 インチキである、というオッサンの主張が正しいのかどうかもそもそもわからないが、書をもらって喜んでいた『バカ』であるところの御婦人方は当然面白くないし、書を提供した書道家も何事かと唖然とした様子であった。もっとも、オッサンが言ったことを、ガイドが彼らに訳して伝えたかどうかは知らない。

 なんとなく高飛車で高慢な印象だったこのオッサンには、もともと皆さんあまり親密ではなかったが、旅の終わりに来て、オッサンはいよいよすっかり嫌われてしまった。そりゃまあ仕方がない。自業自得だ。唯一のお友達である派手なおばさんは、空港の待ち合いロビーで、オッサンについてこんなことを言っていた。

「あの人、変わりもんでしょ。困っちゃうのよねえ。私しか友達いないのよ」

 偏屈オヤジだが、そういう友達がいるということは、それなりにいいところもあるのかなとは思ったが、でも、類は友を呼ぶとは良く言ったもので、実はこのオバサンもただ者ではなかった。

 最後の日、昆明の空港を飛び立つのは午後3時ぐらいの予定だった。そこから関西空港へ行き、国内線に乗り換えて羽田へと飛ぶ。羽田空港へ着くのは午後11時過ぎで、その日は日曜日のために終電が早いので、果たして家に帰りつけるかどうかが少し心配だった。ガイドの陳さんは、空港で我々と別れればお役御免となり、その後は久しぶりに子供と遊ぶ約束をしているのだと言っていた。

 ところが、空港に着いてみれば、帰りの飛行機が機体トラブルのためにまだ日本を出ていないという。最低でも3時間以上は遅れるだろうとのことで、それを知った陳さんは、我々のために子供との約束を反故にして、予定にない時間つぶしの延長ツアーを無料で敢行してくれたのだ。悪いのは航空会社であり、陳さんの勤める旅行会社に責任はないはずだが、こちらの誰かが頼んだわけでもないのに、陳さんはバスの運転手を説得し、我々を再びホテルに連れて行ってくれた。そこでまず希望者に日本への電話をかけさせてくれて(それも無料で)、その後、市内観光の時間を取ってくれた。昆明市内は二度ほど散策したが、まだ見るべきものはあったので、私は事務所の皆さんと一緒に街歩きをした。

 実は、それまでの散歩ではあまり好ましくない中国の現実を目にしていた。最初の散策の時、歩道橋の上を歩いていると、手足のほとんど無い男性が一人、床に転がりながら物乞いをしていた。大変哀れな表情で通行人になにかを訴えている。中国語だからもちろんわからないが、要するに金をくれと言っているのだろう。ほとんどの通行人はそのまま通り過ぎるが、中には小銭を置いて行く人もいる。今の日本では、このような物乞いの光景を目にすることはないので(ホームレスはいても、自分で食料などを調達して歩いているのが普通だろう)、非常に痛々しくショッキングな光景だった。この日はこういう物乞いの男性をそう遠くないところでもう一人見かけて、やはり半泣きのような、憐憫を誘う表情と声音で訴えかけていた。私は、これらの人たちにもちろん哀れを感じたけれど、そういう単純な気持ち以外に、その背景にあるものを想像して嫌な気分になった。

 彼らは手足がほとんど無く(どうして無いのかはもちろんわからない)、自力ではまともに移動することが困難であることは明らかである。殊に、歩道橋の上にいた男性は絶対に自分一人ではその場所へ辿り着けないに違いない。つまりは、彼らをそこに連れてきて、一人置いて行く人間がいるだろうと推察できる。その背後の誰かと彼ら物乞いの関係を考えると、どうも非人道的なものを感じてしまう。たまたまこれを書いている今日読んでいる本にこんなことが書いてあった。一部を引用する。

 すでに六十年あまり前に笠井孝が著した『裏から見た支那人』には、金を稼ぐために手段と方法を選ばず、子供たちを使う中国人の暗い一面が生々しく描かれている。

「支那の田舎に行けば、子供を誘拐して手や足を切り取ったり、関節を曲げて身体障害者にし、物乞いや見せ物として利用することが数多い。(…中略…)」

 日本人の目撃者が記述した内容が嘘ではないことは、こんにちでも都市の裏町や地下道で子ども(たいていは身体障害者)を使って、通行人に物乞いをさせたりする大人たちが数限りなくいることからもわかる。
(『中国人民に告ぐ! ー「文化大国」が聞いてあきれるー痛憤の母国批判ー』金文学著、祥伝社)

 私が目撃したのは子供ではなかったし、誘拐されて手足を切り取られた人達だったとまではさすがになかなか思えないが(現在でも誘拐と人身売買は中国の大きな社会問題であるようだが)、少なくとも彼らが物乞いを強制的に“させられている”可能性は充分に高い気がする。それはあの光景を目撃した時に、私が直感的に思ったことで、もちろん、確証があるわけではない。

 また、最終日の前の晩は社長を除く二人の先輩と一緒に、デパートを見に行こうということで出かけた。そのデパートはかなり高級なところで、ブランド品などが多く、とても空いていた。庶民に手が出そうな価格ではないので、やはり客層は限られているということなのだろう。我々でさえ手を出そうとは思わない値段だったので、なにも買わなかった(もっとも、そもそも目当てがあって見に行ったわけでもない)。

 と、それはともかく、問題はデパートへ向かう路上で目にした光景である。デパートへ向かって歩いている我々に、母娘と思われる二人が近づいてきた。娘は15,6歳ぐらいに見えた。私は事務所の先輩二人の後をついて歩いている格好だったのだが、母親らしき中年女性が、その先輩になにごとかを話しかけた。なにを言ったのか私には聞こえなかったが、つまりは、その娘を買わないかということだ。ポン引きなのである。母娘という確証はないが、雰囲気からするとなんとなくそう思えた。娘はそれなりに可愛らしい容姿をしていたが、ひどく無表情で、自分の身の上に起こっていることに対しての感情を全て捨ててしまっているかのように見えた。無表情な娘に対して、ポン引きの女性の方は、媚を売るような卑屈な笑顔を作っていたが、それは非情な商売人の顔というよりは、娘に対していくらかの同情と心苦しさを含みながら、生活のためと自分に言い訳をしている母親の顔のように思えた。

 話しかけられた先輩たちが即座に断ると、ポン引きの女性はあまり粘ることもなく、そして私に声を掛けることもなく立ち去って行った。デパートを見物した後、再び付近を歩くと、まだその二人が客を探して歩き回っている姿が目に入った。もしもこの日が二人の商売の初日だったとしたら、このまま客が着かずにあきらめればいいのに、とも思ったが、結局は時間の問題で、娘は客を取らされ続けることになるのだろうし、そうしなければ生活ができないという現実はどうしようもないのだろう、と認めざるを得なかった。この娘がいつか幸せになることはあるのだろうかと思うと、なんともやるせない気持ちだった。

 さて、話は最終日の昼間に戻る。昆明の歴史建築物をいくつか見てまわり(主に中国風の素朴な造形の塔。東寺塔、西寺塔というらしい。日本の五重塔といった建築が、輸入された後に如何に洗練されたのかを感じることができる)、ホテルから再び空港へ移動した。今度こそ陳さんとお別れである。これからは飛行機が到着するまで空港で待つしかない。アナウンスに注意をしながら、出発ロビーで待ち続ける。1時間、2時間、3時間。だが、飛行機は来ない。後からやって来た乗客たちが、次々と出発して行く。外はすっかり真っ暗になって、いよいよ残っているのは我々日本行きの乗客だけになった。

 そしていよいよその時が来た。午後9時過ぎ、見馴れたカラーリングの機体が滑走路に滑り込む姿に、ロビーの人達がいっせいに拍手をした。結局、出発は予定より7時間程遅れの午後10時頃だった。

 飛行機が関西空港へ着いたのは、午前2時過ぎだった。空港ではJASの職員が全員にお詫びとして金一封をくれた。確か二千円ぐらいだったと思う。外にはJASの用意したハイヤーが待機していて、これまたJASが確保したホテルへと我々を連れて行ってくれた。もちろんハイヤーもホテルもタダだが、3時過ぎに入ったホテルも、6時には出なければならないのだ(JASが手配した東京行きの便が始発だったので)。ホテルは会社の皆さんと一緒の和室だったが、ちょっとでも多く寝ようと思ったのに、なぜか元気なおじさんたちがこんな夜中に酒を飲み始めて、私も付き合わされた。その時の話題が例の評論家のオッサンである。

「俺はね、あの時、こりゃダメだと思ったよ。そういうこと言っちゃ、いくら評論家だろうが、偉そうなこと言ってようが、もう地に落ちたようなもんだよ」
「そりゃね、インチキだろうがなんだろうが、それを喜んでる人達がいるんだから、そんなのは受け取った後で、こっそり勝手に捨てればいいんだよ。あんなこと大声で大の大人が言うことじゃない。あれじゃ、喜んでるおばちゃん達にだって失礼だよ」

 てな会話が交わされたわけだが、私はまともな感覚を持った皆さんと一緒に仕事ができてよかったなあ、と思ったわけである。でも、寝ましょうよ、もう4時だし。そんな話はあとでいくらでもできるんだから。ということで寝たんだが、寝たのか寝ないのかわからないうちに起きた。バタバタと用意をして、外で待っていたワゴンタクシーに乗り込んだ。姦し御夫人方御一行と我々事務所の人間、それからそば屋の御夫婦に評論家のオッサンとそのお友達、というのが東京まで共にするメンバーだった。タクシーは2台で、どういう風に分かれましょうか、となったところで、御婦人方は評論家のオッサンと一緒は真っ平御免という顔をしたから、自然と我々事務所の人間が彼と一緒の車に乗ることになった。

 車に乗り込むと、オッサンのお友達の派手なオバサンがいらっしゃらない。どうもまだ部屋から出てこないらしい。遅れちゃダメよ、なんて自分で言っていたような気がしたんだが、自分が一番遅れてくるんじゃしょうがない。もうそろそろ飛行機の時間がヤバイという頃になって、ようやくオバサンは車に駆け込んできた。お歳もお歳だけに、寝不足が辛そうである。辛そうな故に機嫌がすこぶる悪い。この評論家とお友達のペアは、実は前日からプンプン状態だった。怒りの矛先はJAS。7時間も遅れるなんて、許されることではないという。空港へ向かう車の中でもこのお二人はずーっと怒りっぱなしだった。

「とんでもない話だ! 私はJASの社長に抗議の手紙を書く!」
「ホントに許せないわ!」

 この件に関しては、彼を変人呼ばわりしていたお友達もすっかり同調していた。結局は似た者同士ってことか。

「もしも、今日、大事な仕事があって、それに間に合わずにパーになったらどうするんだ! それで商談が破談にでもなったら大損害だ! 二千円ぐらいの金で済む問題じゃない!」

 もしも、と言っているとおり、べつにオッサンは仕事に差し支えるようなことにはなっていないわけだ。少なくともオッサンの周りにはそんな損害を被った人はいなかった。

「べつにいいじゃないすか、そんなことでグチャグチャ言わなくたって。タクシー代やらホテル代やらで、JASも随分お金出してるんだろうし。実際に損害を被った人は個別に請求すればいいんじゃないですか。まあ、機体トラブルとはいえ、もうちょっと早くなんとかしてくれても良かったとは思うけど。でも、二時間でも遅れたら、結局当日に羽田までは行けなかったんでしょうけどね」

 と、オッサンたちの文句を聞きながら言いたくなったが、ややこしくなるから言わなかった。

 私はお人好しである。お人好しであるから、一応謝罪している相手に対して、抗議の手紙を送ろうなんて発想はない。でも、それは甘いのだろうか。お人好しというのは、他人に甘い分、自分がなにかしでかした時にも甘くしてもらうことを期待しているという部分がある、と言われるかも知れない。だが、まともなお人好しなら謝罪の仕方が間違っているとか、誠意がないといったときには、ちゃんと腹を立てるし、文句を言うだろう。無条件に他人に甘いわけじゃないし、筋の通った厳しさならちゃんと受け入れる用意があるのがまともなお人好しだろうと思う。なんでもかんでも相手を許し、自分にも甘くしてもらうことを期待するのは、単なる阿呆だ。お人好しとそれとは違う(でも、相手がおっかなかったりすると、なかなかちゃんと文句が言えない場合はあるに違いない)。

 オッサンたちは、クレーマーだと思う。機体トラブルとは、普段の整備とか管理体制がなっていないから起こるのだと言いたいのかも知れないが、人間のやることだから、そういうことはやっぱりあると思うのだ。安全を考えれば充分に時間をかけて修理をしてから飛ばしてもらわなければならない。おそらく、すぐに代わりの飛行機も用意出来なかったのだろうし、思ったよりも修理が長引いてしまったということもあるのだろう。現場の人間のことを想像すると、なかなか簡単に責める気にはなれない。

 オッサンたちのように、とにかく他人に厳しい人達は、その分自分たちの行動についても厳しく、他人の言を良く聞き入れる人なんだろうか。オッサンの言動を見ていれば、そうでなさそうであることは明らかだ。本当に自分に厳しい人とは、やっぱり他人には寛容であるという気がしてならない。決して今回のことでJASの社長に抗議文を書くようなことはしないだろうと思う。寛容は甘さとは違う。甘さには厳しさが含まれないが、寛容には厳しさが同居できる。厳しさと寛容を適切に使い分けられるのが真のお人好しだろうと思う。私はそんなお人好しになりたい。

 と、変なまとめが入ったけれど、もうちょっと続き。

 羽田に着いたのは月曜日の朝である。前の晩は2時間も寝ていない(飛行機でいくらかは寝たけれど)。是非ともすぐ家へ帰って寝たいものだ。はたしてこれからどうするのかなあ、と思いながら社長たちの後を着いて行くと、思ったとおり、彼らは当たり前のように会社へ向かった。会社到着は9時半前。上手い具合に始業の定刻直前だ。

「たいして忙しくもないんだから、休みにしましょうよー」

 と私は叫んだ。もちろん心の中で。私が社長だったら絶対休みにするんだが、そういう人達なのでしょうがない。私よりずっと年上のおじさんたちが当たり前に働くので、私も仕方なく働いた。当然だけれど、眠くて仕事なんかになりゃしない。おじさんたちは、どうしてこんなに元気なんだろうか。とっても自分に厳しい人達なんだなあ、と思ったわけである。


うろ覚え中国旅行記  完結
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